以前のブログで「批判されるのが怖い」という話を書いたのですが(こちらですね↓)、
恐怖心について考える(自分が言われたら嫌な言葉をあえて考えてみた)
じゃあ、批判する人に全員黙って欲しいのか?というと、私はそうも思っていないんですよね。
じゃあなんなんだって感じですが(笑)このことについて、今日は書きたいと思います。
色々な人がいた方が全体が豊かになる
結論を先に言うと、色々な人がいた方が、全体が豊かになるんですよね。
私の場合で言えば、ニッケルハルパとか、スウェーデンの伝統音楽とかの、業界、と言えばいいんでしょうか。
色々な人がいた方が、業界全体として豊かになると思います。
なので、私と違う意見の人もいた方が良いし、私と違う方向性や個性の人もいた方が良いし、皆が皆ちょっとずつ違う方向を向いていた方が、全体としてはより良い気がするんですよね。
反対に、皆が1つの方向しか見ていなかったら、怖いですね。そんなんあり得ないでしょ、って思います。
批評が好きな人もいる
そういう色々な人の中に、「批評が好きな人」「分析が好きな人」もいると思うんです。
これは嫌味とかではなくて(笑)
純粋に、性格、個性、趣味の話です。
分析が得意な人っていますよね。その延長線上で、批評や、他の人の分析が得意な人というのがいると思います。
そういう人にとって、批評や分析をすることは、趣味でありアイデンティティであり、たぶん必要なこと?なんじゃないかと思うんです。
(業界を問わなければ、仕事にしている人もいますよね)
で、「批判されるのが怖い」という話と、「批評する人たちは口をつぐむべきだ」という話って全然別物なので。
私は、批判されるのは怖いけど、じゃあ批評したり分析したりする人たちに黙ってもらいたいかというと、決してそうではないんですね。
もちろん悪質なものは嫌ですが(笑)
自由に意見を言える方が、全体としては健全な感じがします。
批判はあくまでも一つの意見。それで頭をいっぱいにしないこと
それでも批判でダメージを食らってしまうことはあると思いますが、そういう批判とか批評も、あくまでも「一つの意見」だと、客観的にとらえられたら良いなと思っています。
あくまでも全体の中の一つの意見にすぎないな、と。
その一つの批判によって、自分の頭をいっぱいにしない、ということです。
(これが難しいのですが)
その批判に(悪い意味で)心が奪われなければ、批判する人のことも受け入れられるし、批判がそんなに怖くなくなるのではないかな?と思っています。
といっても、私自身がまだその境地に至っていないのでわかりませんが(笑)
なんとなく、今日書いているようなことを考えられるようになった時点で、批判への恐怖は少し薄らいでいるような感じはします。
そもそも、批判に限らず、他人の好みや意見を鵜呑みにして全部吸収しようとしなくて良いんですよね。
ただ、そうなるともう「人との境界線をいかにひくか」の話になるので、とても私が安易にブログに書ける内容ではなくなってしまうので、この辺にしておきますが(笑)
とにかく、色々な人がいた方が良い、というのを心に留めておきたいと思います。
その際、やっぱり人の入れ替わりがあったり、新しい人が入ってきたり、出て行ったり、みたいな流動性があると良いのかなと思うので、私は、これからも新しい人とたくさん出会っていきたいです。
という感じで、「批判されるのは怖いけど別にいなくならなくても良いよ」みたいなツンデレなことを書いてみました。
私は、「自分が書いたことを人がどう受け止めるのか」というのをすごく考えてしまうので、もしも冒頭の記事を読んだ人が、自由に意見が言いにくくなってしまったら、それはそれでなんか違うよな、と勝手に思ったんですよね。
あと、日本人でもスウェーデン人でも、やたらと批判するのが口癖みたいな人っているじゃないですか。「最近の若者は」が口癖みたいな人ととか(笑)
私は、そういう人の言うことを真に受けすぎる傾向があって(特に伝統音楽関係の話で)、真に受けすぎるとすごく苦しいんですけど、真に受けすぎなければ、この人たちもただのおじさん・おばさんなんだな、って思って(笑)
そう思ったら、その人たちの意見を聞くのが怖くなくなって(意見というか、だいたいいつも同じ話ですが)、怖くなくなると、そういう批判(他人への批判とか)を耳にしても嫌な気持ちが減るんですよね。ただの意見や好みとして受け止められると思います。
そんなことを考えてみました。