ニッケルハルパを知るためにスウェーデンを知ろうということで、スウェーデンの歴史の続きです!
前回はデンマーク王クリスチャン2世によるストックホルムの血浴(大量処刑)と、処刑をまぬがれたグスタフ・ヴァーサがダーラナ地方に行き、兵士たちを集めて反乱を起こそうとしていた…というところで終わっていました。
今回は、グスタフ・ヴァーサがスウェーデン王になる時代を見ていきます。
(※この記事は、スウェーデンのTV番組「Historien om Sverige(スウェーデンの歴史)」を見てメモしたことを書いています。毎回書いていますが、本当に私は世界史の知識が無いので、間違ったことを書いていたらすみません)
★これまでの内容
・石器時代~鉄器時代→スウェーデンの歴史①石器時代、スウェーデンの歴史②青銅器時代、スウェーデンの歴史③鉄器時代
・ヴァイキング時代→スウェーデンの歴史④ヴァイキング時代への移行、スウェーデンの歴史⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、スウェーデンの歴史⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→スウェーデンの歴史⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、スウェーデンの歴史⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、スウェーデンの歴史⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、スウェーデンの歴史⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
【人物解説】
・クリスチャン2世(デンマーク王であり、ノルウェー王・スウェーデン王にもなった。ストックホルムの血浴によりスウェーデン独立派の貴族らを100人以上処刑)
・グスタフ・ヴァーサ(グスタフ・エリクソン。後のスウェーデン王であり「建国の父」と呼ばれる人物。クリスチャン2世を信用していなかったため、ストックホルムの血浴での処刑をまぬがれた)
1521年頃、グスタフ・ヴァーサによる反乱
1520年に起きたストックホルムの血浴(Stockholms blodbad)の後、クリスチャン2世はデンマークへ帰ることにしました。
この家路においても、彼はさらに多くの反逆者たち(貴族たち・聖職者たち)を処刑しました。
その他にも、クリスチャン2世が行った増税や、領地拡大のために長い間デンマークを離れていたこと、農民から武器をとりあげようとしたことなどが、さらなる人々の反発を招いたとも言われます。
一方、グスタフとダーラナ地方の兵士たち、そこにスモーランド地方の農民たちも加わり、彼らはクリスチャン2世のもとへ赴いていました。
1521年~、クリスチャン2世に対する反乱が起きます。
この時、グスタフが戦いの指揮をとりました。
いくつかの城塞は制圧が困難だったため、ドイツ人兵士たちの助けも借り、グスタフ側は戦争に勝利。
(グスタフはリューベックに多額の借金を負います)
1523年6月6日、グスタフはスウェーデン国王へと就任します。
(※現在はこの6月6日が、スウェーデンのナショナルデーとしてお祝いされています)
グスタフが国王として就任することができたのは、1つには彼の「出自」がふさわしかったこと(親族が有力な貴族であったこと→前回の記事)。
そしてもう1つには、クリスチャン2世による反逆者の大量処刑により、「力のある貴族の多くがすでに処刑され、有力者による衝突がほとんど見られなくなっていたこと」があげられます。
グスタフの王就任は、カルマル同盟の終わりを意味していました。デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3か国を1人の王が統治する時代は終わったのです。
同時に、これは「新しい時代の始まり」でした。少なくともグスタフ本人はそう思っていて、彼自身が語られる物語などにも介入。「グスタフは、スウェーデンの人々を救った英雄である」というイメージを多くの世代に対して与えることに成功しました。
今もグスタフ・ヴァーサは「建国の父」として語られています。
借金と宗教改革
戦争に勝利した際、グスタフ(グスタフ1世)はリューベックに対して多額の借金を負っていました。
借金返済のために人々に徴税するも反発を招き、財政の問題は彼の肩に重くのしかかっていました。
ここに影響を与えたのが、ドイツで起きた「宗教改革」です。
宗教改革
グスタフが王になる少し前、ドイツの修道士、マルティン・ルターがローマ教会に対して抗議。
カトリック教会に対する強い批判がヨーロッパ中で高まりました。宗教改革です。
「聖職者とはどういう存在であるべきか?」「富を蓄え権力を行使する存在であるべきではないのではないか?」と考える人が増えました。
グスタフ・ヴァーサもまさにこの宗教改革の波に乗りました。
スウェーデンのカトリック教会は、その後すべてスウェーデン教会へ。
また、教皇ではなく、国王が最高位となりました。
この一連の流れはヴェステロース議決(Västerås recess)と呼ばれます。教会の財産を没収したことにより、国家が経済的に回復。司教は力を失い、修道院は閉まり、貴族は教会に寄付した財産を取り戻しました。
宗教改革により得をしたのは、王と貴族でした。
経済面での状況改善により、グスタフ・ヴァーサはダーラナ地方の人々の反発をおさえることにも成功しました。
聖書のスウェーデン語訳
グスタフは教会の「権力」や「財産」だけでなく、「言語」分野にもメスを入れます。
聖書を人々が理解できる言語(=スウェーデン語)にしたのです。
グスタフが王になってから3年後、スウェーデン語で初めての新約聖書が出版されます。その後、ミサもスウェーデン語で行われることが決定。
さらに、旧約聖書も時を経てスウェーデン語へと翻訳されました。
「聖書が自国の言語で書かれている」ということも、それを実行した王の権力の大きさを象徴するものとなりました。
スウェーデン語にも影響
また、聖書がスウェーデン語に訳されたことは、スウェーデン語自体にとっても大きな意味を持つようになりました。
新約聖書がスウェーデン中の全ての教区の教会にいきわたったことで、「聖書に書かれた言葉や文章」が、司祭たちの「読み書きのスタンダード」となったのです。
たとえば、このグスタフ・ヴァーサの時代の聖書により、「å」「ä」「ö」の文字がスウェーデン語の文字として確立したと言われています。
また、グスタフは王の力を強めるため、国家機構や政府機関を作ることに注力しました。
彼の行った一連の施策は、16世紀の国家建設のプロセスにおける最初の段階となりました。
スモーランド地方の反乱…ニルス・ダッケの反乱
宗教改革による財政の回復で、ダーラナ地方の反発をおさえたグスタフでしたが、これとはまた別の地域に、彼に対して反発した人々がいました。
スモーランド地方のニルス・ダッケ(Nils Dacke)です。
1542年、ニルス・ダッケはグスタフの官吏を殺害し、スモーランド地方で反乱を起こしました。後に「ダッケの反乱(Dackefejdan)」と呼ばれるものです。
グスタフは自身のプロパガンダにおいて、ニルス・ダッケのことを「スモーランドの森の盗人たち(skogstjuvar)」と呼びました。これは、反乱者たちのことを「とるに足らない存在」であり、彼らの起こす反乱など「小さな土地のローカルな問題」だと印象づけたかったのだと推測できますが、実際のところ、ニルス・ダッケは盗人でもなんでもなく、スモーランド地方に住む普通の農民でした。
彼は妻と息子とともに、スモーランド地方南部の農場で暮らしていました。
★ニルス・ダッケの肖像画↓
当時のスモーランド地方の住民たちは、貧しくはありましたが、自立した生活を送っていました。だからこそ、王から何もかもコントロールされることに反発しました。
ニルス・ダッケをはじめとする、そんな「普通の農民たち」が反乱を起こしたのにはいくつかの要因が考えられます。
1つは、「新しい税金が課せられたこと」。
そしてもう1つは、「教会の財産を没収し、都市や国家の財政に使用したこと」です。
後者はあまり問題ではないように思うかもしれませんが、ここで国が没収したもの(教会が管理していた銀などですが)には、農民たちが支払ったもの、たとえば「結婚する際に花嫁がかぶる冠(brudkronor)」も含まれていました。
人々は、「自分たちの娘の結婚式のために冠のための費用をさしだしたのに、なぜそれが王によってとりあげられなければいけないのか?」と反発しました。
(※以前、スウェーデンの昔の結婚式について書いた際、この部分に少しふれました→スウェーデンの昔の結婚式について(「花嫁の衣装」の項目「冠・アクセサリー」)。結局、花嫁の冠は「1つか2つだけ保持すること」が最終的に許された、ということなのかなと解釈しています)
このように、彼らの反発自体は不思議なものではありませんでしたが、この反乱を率いたのが「一般的な農民」のニルス・ダッケであったことは、特徴的です。
この反乱は勢いを増し、グスタフは事態が思っていたよりも深刻であることに気づきます。
戦いは激しくなり、ニルス・ダッケたち農民の言い分を聞くこともありましたが、最終的には王側が勝利。
反逆者たちは処刑され、見せしめとして、ニルス・ダッケの首はカルマル城の外に(偽の王冠とともに)さらされました。
ニルス・ダッケの反乱以降
この出来事は、グスタフに少なからず影響を与えました。
ニルス・ダッケの反乱以前のグスタフは、民衆が何を考えているのかを全く気にしていませんでしたが、反乱以降は民衆の支持を得るため、スウェーデン内の各地を訪れ、民衆の不満を聞き、段階的に変化を加えたり、上手く行かなければ元に戻したりしました。
1560年、グスタフが亡くなります。
彼は約40年間、王として立ち、ペスト以降の混沌とした時代に秩序と安定をもたらしました。王位をめぐる戦乱の時代や、デンマークによるスウェーデン支配の時代に終わりを告げたのです。
グスタフ・ヴァーサは、建国の父であるのと同時に、独裁者的な面もあり、その両面が語られます。
また、「家族思いの人であった」という冗談交じりの描写も見受けられます。
グスタフ亡き後は、長男のエリク14世(Eik)が王位を継承。以来、王位は「争いで手に入れるもの」ではなく、父から子(長男)へ継承されるものに。
ウップランド地方のウプサラ大聖堂にはグスタフの遺体が埋葬されました。
★ウプサラ大聖堂の中の様子↓この大聖堂の壁画も、前回出てきたアルベルトゥス・ピクトルらによって描かれているそうです。
参考:
Wikipedia「クリスチャン2世(デンマーク王)」
Wikipedia「グスタフ1世(スウェーデン王)」
Wikipedia「Nils Dacke」
ということで、グスタフ・ヴァーサの時代でした。
グスタフ・ヴァーサって名前はよく聞くけど、一体何をした人なんだろう?と思っていたので、おおまかにでも知ることができて良かったです。
また、時代区分的にはこの辺まで(宗教改革、もしくはグスタフ・ヴァーサが王になるまで)が、中世なのかな?と思います。国によって時代区分は違うと思うので、難しいのですが。
もしかしたら次の記事は、歴史の記事とは少し違うブログをはさむかもしれません。音楽の方で最近やっていたことがあるのですが、ブログに書く機会を失っていたので(音楽関係の内容の方が大事なのに…)、ひと段落したら書こうと思っていたんです。
歴史の方もなんとかして現代までたどり着きたいので、駆け足ながらも更新していきたいと思います♪
