峰村茜のホームページへようこそ!どうぞごゆっくりご覧ください。

和訳しながら色々な人の演奏を見ることで、感じたこと4つ

/ ニッケルハルパ奏者

今までも何度か同じことを書いていると思うのですが、あらためて思ったので、書いていきたいと思います。

和訳で色々な人の演奏を見ることで、感じた自分の変化です。

①柔軟になった気がする

色々な人の演奏を見ていると、自分の演奏に対する考え方(あり方)が柔軟になったように思いました。

私は他の人の言葉にしばられやすくて、誰かが「こう演奏すべきだ」と言えば、そうでなくてはいけないような気になってしまいます…。

「そんな風にしばられなくて良いんだ」と頭ではわかっていても、つい身体がその指示に従おうと動いてしまいます。

でも和訳で見る演奏家たち、特に、私が今まであまりよく知らなかった演奏家たちとか、自分があまりよく知らなかった地域の曲の演奏を見ていると、自分の心も身体も楽になっていくのがわかりました。

もともと、「こう演奏するのが良い」と教えてくれている人も、自分がやっていることをなるべく言葉で表現しようとした結果、その言い方になっているだけで、実はやっていることと言っていることが微妙にずれていたり、本人は言うほどやっていなかったり(笑)、伝える過程で目的と方法が入れ替わっていたりします。

(「目的と方法が入れ替わっている」と書いたのは、たとえば、教えてくれる側は「良い音を出すために(目的)、自分がやっていることを分解して教えてくれている(方法を教えてくれている)」のに、私はその「分解した言葉たち(方法)」を目的としてしまう、ということです)

演奏方法や演奏の感じというのは、言葉で表現しようとした時点で、ちょっと変わってしまいます。

なので、本当はその言葉にしばられる必要はありません。

…ということを、頭ではわかっているにも関わらず、弾くと、なぜか言われたことを再現しようと身体が硬くなる…というのが私の今までの経験でした。

でも和訳を通して色々な演奏家の演奏をちょっとずつ見ていくうちに、実際の練習中にも、身体の感じが少し変わっていくのを感じました。

言われた言葉を忘れることができました(それが良いか悪いかは別として(笑))

頭で「演奏は自由だぞ」と思うよりも、色々な人の演奏を見て楽しむことで、心や身体にそれ(「色々な演奏があるし、自由なんだな~」というもの)がインプットされるのかもしれないと思います。

やっぱり色々な人の演奏を見ることは良い効果があるのだなあ、と思いました。

また、今回の場合、ただ見るだけではなく、和訳をすることでその人のことがよりよくわかったので、その結果、演奏家それぞれを好きになることができる気がします。

以前の私は、なんというか…。

他の人の演奏のあらさがしや、自分の趣味の押し付け、他人の批評などを無意識にしてしまって、コンサートなどを楽しめていなかった気がするので。

同じコンサートを見るにしても、自分の見方も大切なんだと思いました。

②演奏が上達する(楽器にふれていなくても)

コンサートを見た後に楽器にふれたら、最初に弾き始めた時点で、自分の弾き方(弓の扱い方、弦への当て方など)が昨日よりも良い(楽な)方向に変わっているのを感じるようになりました。

あんなに長時間練習して試行錯誤してた時はなかなかうまくいかなかったのに…(笑)

コンサート見る(聴く)時間を持つ方が、実際に楽器にふれて長時間練習するよりも、速く上達するのかも…(笑)

なんて、本当はまあ両方必要だし大切なんですけど。

さきほどの話ともかぶりますが、「こうしよう」「ああしよう」と思っていないのに、身体が楽な弾き方をしてくれるようになりました。自分でも何が起きているのかよくわかっていませんが。

(その他にも、私、4月くらいからちょっとずつゆるい筋トレをしていて、身体が少しずつ安定してきたので、そのおかげもあるかもしれません)

和訳で色々な人の弓使いを見ていて、潜在的に学んだこともあるのかな、と思いました。

インスピレーションを得たり、インプットすることもやっぱり大切だなと感じました。

③感覚的に自由になる

私は普段からわりと「自由になりたい」願望が強いのですが、演奏中は特にそうです。

自由でいたいです。

以前、野崎さんにインタビューしていただいた時も「キーワードは自由だね」と言っていただきましたが。

2021年にインタビューしていただいたONTOMOの記事→楽器探索シリーズ#2「癒しの音色!スウェーデンの民族楽器ニッケルハルパをレソノサウンドで体験」

(ONTOMOのHP素敵ですね)

演奏中は、特に、「感覚的に自由でいたい」と思っていて、自分の感覚と楽器がそのままつながっているような感じになると良いな、と思っています。

不自由さを感じることなく。

そのうえで、変にパフォーマンスぶった演奏でもなく、普通に、ただし自由に、弾きたいです。

野崎さんのインタビューの時、話には出ましたが記事には載っているかどうか覚えていないのですが、私はスウェーデンの伝統音楽以外に、ピアニストで作曲家の上原ひろみさん(Hiromi)が大好きです。

上原ひろみさんはめちゃめちゃ動くし呼吸の音が入っているし、パフォーマンスっぽく見えるかもしれませんが、おそらくあれは普通に全開で弾くと、結果的にそうなる…という感じだと思います。

話がそれますが、上原ひろみさんの曲は派手な曲がよく注目されます。私もそういう曲も大好きなのですが、私が本当に好きなのは、バラードなどの静かな曲を演奏している時です。

音の粒がキラキラしていて、まるくて、本当に優しい音が大小散りばめられています。特に、「Silver Lining Suite」(アルバム)の初回限定版(だったと思う)のボーナスCDに入っているバラードのみを演奏したLIVE録音の(SAVE LIVE MUSICの)アルバムが特に好きです。

そして最近、彼女の最新アルバムが出たので、私は元気になりました。自分の変化がわかりやすいなと思いました。

さて、話がそれましたが、感覚的に自由になるってすごく難しい、とずっと思っていたのですが、和訳を色々やっていくうちに、自分が柔軟になり、楽器と自分の感覚がつながる感じというのを、少しずつ感じるようになってきました。

心や身体に色々と制限を受けている中で弾くのと、つながっている感じで楽に弾くのとでは、自由さが全然違う、と思います。

制限を受けている中で弾くのは、メロディを弾くだけでいっぱいいっぱいだけど、感覚と楽器がつながっている状態で弾くと、メロディを楽に弾ける状態がゼロで、そこからさらにプラスしていける余力があるような気がします。

もっと柔軟に、もっと自由になれたら良いな、と思いました。

④和訳で自分のスウェーデン語のレベルをさらけ出せるのがとても楽

自分のできることも、できないことも、両方さらけ出せるのは、楽だと思いました。

できることを隠すのもストレスだし、できないことをできるフリするのもストレスです。

どっちも嫌だなと思っていました。

…というか私は、たぶん、今までどっちもやってきたんです(笑)

だから嫌だったんですね。

スウェーデン語で「できる(わかる)部分」は遠慮して隠していたものも多かったし、反対に、できないことをさらけ出すのも怖かったです。

でも、和訳をして公開することで、自分のできることとできないことの両方をさらけ出すことができて、かなり心がすっきりしてきました。

今の自分にできること・知っていることはどんどん役立てていきたいし、できないことは今はできなくても大丈夫だと思いました。

コンサートの和訳を通して、伝統音楽ってやっぱり美しいし楽しいし、聴いていても見ていてもほっとするし、好きだなあと思いました。


以上、和訳をしていて感じたことを書きました。

実はBosseの追悼コンサートの訳が終わった後、一気に燃え尽き感があって、一度和訳の記事が停滞気味だったのですが、上原ひろみさんのアルバムがリリースされて元気になり、さらに夏の暑さもやわらいだおかげで、勢いづいて記事を作成しています。

どんどん先に進もう、と思いました。

お読みいただき、ありがとうございました。