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スウェーデンの歴史⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)

/ ニッケルハルパ奏者

ニッケルハルパについて知るためにスウェーデンの歴史を知ろう!ということで、スウェーデンの国営放送の特番「Historien om Sverige(スウェーデンの歴史)」を見てメモした内容や調べたことをブログに書いています。

前回はヴァイキング時代に入ったところ(8世紀頃)まで見てきました。

当時の社会の様子や、「議会/裁判(tingen)」について扱ったところで終わっていましたね。

今回は、ヴァイキング時代の続きです。主に略奪について。

略奪(Plundring)

裁判や議会のために人々が集まった場では、多くの情報交換が行われました。

たとえば、ヴァイキングたちがこれまでに経験してきた旅路について、そして「略奪(Plundring)」といった遠征活動についてです。

(※「略奪」という訳語でふさわしいか確信が持てないのですが、とりあえず今回は「略奪」で書いていきます)

略奪は、ヴァイキングたち、とりわけ若い男性たちにとって、重要な仕事でした。

なかでも次男・三男など、長男ではない(家を継ぐことができない)男性たちは、数年間旅に出て、略奪によって富を得ることができれば、故郷に帰った後で家を持ち、新しく豊かな生活をきずくことができました。

略奪は大仕事でしたので、しっかりと計画を立て、食料や武器を準備することが必要でした。

船について

略奪において非常に重要だったのが「大きくて軽くて丈夫な船」を用意することです。

当時、ヴァイキングの船を造った大工たちは、とても優秀なプロフェッショナルたちでした。

彼らは斧(Yxan)を使い、軽くて、浅い喫水の船体を持つ、丈夫な船を造ることができました。追い風に対してよく動き、スピードも速く、すぐに停止することができる、静かな船です。これらは、スカンジナビアの水辺の気候に合っていました。

船の種類としては様々なものがありましたが、どれも共通していたのは「竜骨」をもっていたことです。この竜骨があることで、頑丈でありながらも、波の力や動きに対してフレキシブルに対応することができました。

(※竜骨というのは部材だそうです。詳しくは→Wikipedia「竜骨(船)」

また、鍛冶屋によって船の「鋲(びょう)」が作られました。

(当時の鍛冶屋は、その他にも斧や剣、槍などを作っていました)

帆の作成ー奴隷の労働力が必要だった、と考えられる

さらにヴァイキングたちは、それまでの船に見られなかった、「帆(Segel)」をつけた船を新しく造るようになりました。

この「帆船」が、ヴァイキング時代の始まりを象徴しているとも言えるそうです。

ただし、当時「1枚の帆」を作るのに、1人の人間がフルタイム・休みなし(8時間×週7日)で働いたとしても、最低でも「2年」がかかりました。

これを成立させるためには、「奴隷」の労働の存在が欠かせなかったのでは?と考えられているそうです。

ヴァイキング時代の社会は、奴隷の労働力なしには成立しないものであり、「5人に1人が奴隷だったのでは」という説もあるそうです。

帆1枚をとってみても、当時の社会構造まで想像することができます。

ヴァイキングの記録ーウプサラ王イングヴァルの略奪と、エストニアで見つかった船と戦士の骨

ヴァイキングに関しては、様々な記録(skriftliga källor)が残されています。

たとえば『クンガ・サーゴナ(Kungasagorna=王の物語(サーガ))』には、ヴァイキングたちの航海がどのようなものだったのか?が書かれています。

こういった物語は、おそらく最初は口頭で伝承されていたのだと考えられます。当時は、次世代に「語り継ぐ」役割の人がいたのでしょう。

(※最初は語り伝えられていただけだったが、後になってから文書に記録された、という意味だと思います)

物語には、細部にわたって「当時の人々の暮らし」が記されており、当時の社会に対する一般的なイメージを思い描くことができます。

ウプサラの王イングヴァルのエストニアでの戦い

一方で、個人に関する物語も記されています。

その一部が、初期のウプサラ王の1人、Yngvar(イングヴァル)に関する記録です。

イングヴァルは王であり戦士でした。デンマークやバルト海沿岸の国々の攻撃から、スヴェア人(スウェーデン人)の国を守っていました。

(彼は名誉あるユングリング家に属していました。ユングリング家は、当時スウェーデン中部のメーラダーレンやウプサラの辺りを統治していた人々です)

デンマークとの戦いを終えたばかりのイングヴァルは、今度は略奪と戦いのため、エストニアへと向かいました。

それに対し、エストニア側もたくさんの戦士で応戦。その数はヴァイキングたちよりも圧倒的に多く、イングヴァルたちは敗れてしまいます。

さきほどの『クンガ・サーゴナ/王のサーガ(Kungasagorna)』によれば、「彼らはエストニアの海岸沿いに停泊した彼ら自身の船に埋葬された(=船葬墓)」と言われています。

また、他の資料には、「イングヴァルは『Eysysla島の住民』に殺された」と書かれてました。Eysyslaというのは今のサーレマー島(エストニアの島。スウェーデン語でÖsel)の、古い呼び名です。

2000年代の発掘調査で見つかった2隻の船と戦士の遺体

さて、2008年頃のことです。

前述のエストニアの島「サーレマー島」のサルメ村にて、自転車用の道を建設するために地面を掘ったところ、「2隻の船の痕跡と41人の戦士の骨」が見つかりました。

のちの調査から、この船と戦士は「8世紀半ば(750年頃)のものだ」と特定できました。

船は、木製の船体部分は全く残っていませんでしたが(地中で分解されていましたが)、地中に残った「鋲(びょう)の配置」から、この船がどれくらいの大きさのもので、どのような形のものだったのかを、正確に知ることができました。

すると、2隻の船のうち大きい方は、当時の北欧のものとして発見される「最古の帆船」だということがわかったのです。

「ヴァイキング時代のはじまり」を新たにする発見だった

長い間、ヴァイキング時代のはじまりというのは、793年の「北部イングランド、リンディスファーン修道院への略奪(襲撃)」が最初だと思われてきました。

しかし、この発見によって、ヴァイキングたちの活動が「約半世紀も前から」行われていたことがわかります。

それだけでなく、この遺構がエストニアから出土していることから、おそらくエストニアに至るよりも前に、ヴァイキングたちは、すでにバルト海沿岸の他の地域の略奪を終えていたのでは?とも考えられるようになりました。

ヴァイキング時代のはじまりに明確な境界線をひくことは難しく、8世紀半ばよりもずっと前から、彼らは活動していたのではないか、と。

船と戦士ーイングヴァルたちのものなのでは?と推測

そして、出土した骨を分析すると、この乗組員たちはメーラダーレンの辺りからってきた人々だということがわかりました。

さらに、彼らは比較的裕福で、戦士だったということも。

彼らこそが、記録にも記されているイングヴァルと、その他の戦士たち(ヴァイキングたち)だったのではないか、と推測されるようになりました。

この41人の死者全員のかたわらには、それぞれ剣が置かれ、たくさんの「ゲームの駒(クジラの骨でできたもので、チェスのような遊びで使われたような駒)」が意図的に置かれていました。

これは、ヴァルハラ(=北欧神話において戦死者が向かう館)への旅路のために、誰かが、亡くなった彼らに贈り物として置いた(=丁重に埋葬した)のだと考えられました。

なかでも、「キングの駒として使われたであろうゲームの駒」が、ある1人の遺体の口もとにありました。彼はただ1人、駒を「口にくわえた状態」で埋葬されていたようです。

断定はできませんが、「この人が王イングヴァルだったのではないか?」と推測することができます。

他の部族との親交

さきほど出てきた「ゲームの駒(Spelpjäs)」ですが、これは「クジラの骨」でできたものでした。

しかし、クジラはバルト海(スウェーデン東側の海。イングヴァルたちがいた辺り)には存在していませんでした。

この駒は、いったいどこからもたらされたものなのでしょうか?

サーミの人々や他の民族/部族との交易

クジラの骨を使った加工品やクジラの脂身(鯨脂)、肝油、その他の品々。

これらは、ノルウェー北部からヴァイキングのもとへともたらされていました。

ここには、農民たちの他に「サーミの人々(北方の先住民族)」がいました。彼らは捕鯨や、野生動物の狩猟によって暮らしており、狩りのスペシャリストたちでした。

そんなサーミの人々と、基本的には農業をメインとしていたサーミ以外の人々や、ヴァイキングたち。

当時は異なる得意分野を持つ集団が、協力関係のもと共存し、対等な関係として交易を行っていたと考えられています。

たとえば、交易においてサーミの人々は、クジラの加工品以外にも、縄や、角、骨を加工した品物をヴァイキングにおくり、代わりにヴァイキングたちは布や斧(鉄製)、留め金やボタンといった金属の加工品をおくりました。

また、サーミ以外にも、異なる民族/部族がおり、交流があったと見られています。

こうした異文化間の交易・交流もまた、ヴァイキングの活動において重要なものでした。

戦士としてのヴァイキングの軌跡

戦士としてのヴァイキングの軌跡もおおまかに見てみましょう。

ヨーロッパからアメリカ、ロシアやウクライナまで

ヴァイキングたちの略奪は、9世紀にはイギリスやフランスへと向かい、次第にヨーロッパ全体へと渡っていきました。

西はアメリカ。

そして東はロシアやウクライナの方まで行きました(河川沿いに侵攻)。

ロシアの語源とも

一部の人々は現地に定住し、もとから住んでいた地元民たちとともに、交易の拠点を作り上げていきました。

こうした地域の一部は「ルーシ族の国(Rusernas rike)」と呼ばれ、これは現在の「ロシア(スウェーデン語ではRyssland)」のもとになったと言われているそうですが、この「ルーシ」という名前も、ヴァイキングたちの出身地「ロースラーゲン(Roslagen)」という地名に由来しているのではないか?とも考えられるそうです。

(※つまり、「ロースラーゲン(Roslagen)→ルーシ(Ruserna)→ロシア」。これについては諸説ありそうです)

(※ちなみにロースラーゲンは今でもウップランド地方にある地域名で、海沿いの地域です。ニッケルハルパ奏者のセイロン・ヴァリーンが弾く曲がロースラーゲンの辺りの曲になっています)

河川沿いに移動、奴隷の売買

ヴァイキングたちは、河川を使って内陸部の方まで侵攻しました。ヴォルガ川やドニエプル川を使って。

南は黒海やカスピ海に至るまで。

時には過酷な旅路もあり、陸地に船を上げ、陸路で移動しなければいけないこともあったそうですが、船が比較的軽量だったため、人力で上げたり引っ張ることができました。

また、彼らが交易のために運んでいたのは高価な品物や毛皮等だけではありませんでした。

奴隷です。

奴隷の売買(労働力の売買)は当時の経済においてきわめて重要でした。おそらく私たちが理解するよりも、はるかにずっと。

コンスタンティノープルで皇帝の警護として雇われる

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都(皇帝がいた場所)、コンスタンティノープルにはヴァイキングにとっての仕事がありました。

皇帝のもとで、要人の警護にあたったのです。

彼らは「ヴェーリンガル(Väringar→日本語では「ヴァリャーギ」と表記される)」と呼ばれ、優秀な戦士たちだったそうです。

新しい文化や視点を持ち帰る

ヴァイキングのそうした旅路は、彼らに常に新しい文化や価値観、視点といったものを与えました。

ヴァイキングたちは、それらの文化を故郷に持ち帰りました。

当時世界で見られたような習俗は、遅かれ早かれ、スカンジナビアの国にももたらされていきました。

その1つが、宗教(キリスト教)です。

次回、ヴァイキング時代の宗教について(中世への移行)見ていきたいと思います。


ということで、ヴァイキング時代の続きでした。

ヴァイキングにこんなに時間をかけるつもりはなかったのですが、つい長々と書いてしました。

一応ニッケルハルパ奏者のブログなので(笑)、適度に他の話題(音楽の話題)も入れながら休憩しつつ、書き続けていきたいと思います。

次回は宗教の話ですね。もしかしたらその前に違う話題の記事を1つ書くかもしれませんが、続きは2~3日以内を目途に更新したいと思います!