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1つのものをつきつめる楽しさと、ジャンルや解釈の違いを越えて多様な音楽や演奏を楽しめる自由さ。両方を自分の中で共存させるためには?

/ ニッケルハルパ奏者

以前から、そして特にここ3週間ほど、考えていることがありました。

それは、「1つのものをつきつめる楽しさと、色々な音楽(色々なジャンル、異なる解釈の演奏)を楽しめる自由さの、両方を大切にすることはできるのだろうか?」ということです。

私の場合で言えば、前者がスウェーデンの音楽やウップランド地方の音楽や私の好きなニッケルハルパの音色です。そして後者が、それ以外の音楽(ポップスやクラシックなど、他のジャンルの音楽)や、自分の好み以外のニッケルハルパの音色、また、私はフィドルは演奏していませんがスウェーデンの音楽で耳にしてはいるので、フォーク・ミュージックとは違うヴァイオリンの音色など、です。

「できるか?」という疑問に対しては、もちろん頭では「できるのだろう、できるはずだ(やっている人はたくさんいるはずだから)」と思ってはいました。

しかし、いざ自分の立場で、どういう心の持ちようでそれが実現できるのか?ということはわからずにいました。

つきつめる一方では、視野が狭くなるように感じた

自分のやりたいことや好きなものをつきつめることは素晴らしいことなはずなのに、それによって自分の視野が狭くなる時があるな、と、以前からよく感じていました。

つきつめればつきつめるほど、自分の好みではない方向性の演奏や音色が認められませんでした。

特に、自分がよく弾いたり聴く分野に関して、他人の批評をしたくなったり、粗さがしをしてしまったり、というようなことが頻繁に起きていて、自分にうんざりしていました。

全く知らないジャンルの音楽や、自分が普段聴くものとは違う音楽を聴く時には何も考えずにふわっと楽しむことができるのに、自分がもともと好きなジャンルのものに対しては、自分の偏った物差しを相手に当てはめてしまって楽しむことができない。

それは、なんだかとてもつまらないし、もったいないな、といつも思っていました。

自分が良いと思うものだけしか認めないことよりも、色々なものの良さを見つけていけたらきっともっと楽しいだろうし、自分にとってもたくさんの発見があるはず。

私はそういう風に音楽を聴きたい、と思っていました。そして同時に、それができない自分がもどかしかったです。

色々なものを楽しめる自由さに憧れた

一つのことをつきつめがら、同時に色々な音楽を楽しんでいるミュージシャンや演奏家はたくさんいますし、自分自身が色々演奏していなくても、他人の多様な演奏を楽しむことができている人は、たくさんいます。

そういう人を見るたびに、すごいなあと思いました。

自由だなあ、と思いました。

色々なものを楽しむと言っても、本人が無節操になんでもかんでも手を出して全部中途半端になっているというわけではなくて、その人自身は芯が通っているのに、他の種類の演奏や解釈も認めていて、しかも楽しめている、というような印象でした。

力強くて自由だ、と思いました。

反対に、私と似たような感じになっている(ように見える)人も、よく見かけました。

そういう人を見ると、自分を鏡で見ているような苦い気持ちになりました。私もこうだなあ…、この人の言っていることはすごくよくわかるし正直共感するんだけど、私自身はここから抜け出したいんだよなあ…(その人が実際に私と同じかどうかはわからないけれど)、と。

私には、自由になる勇気がまだ持てないなあ、とも思っていました。

つきつめる楽しさは、ある

ただ、つきつめることの楽しさもまた確実に存在していました。

つきつめることはとても楽しいし、つきつめた先に見えるものを私はもっと見たいと思うし、つきつめて突き抜けた人どうしで、わかりあえるものもたくさんあるな、と感じていました。

つきつめることの楽しさもまた、やはり私にとってはとても大切なことだと思いました。

ではその楽しさと、他の色々な演奏や音楽を楽しむ自由さを、どうやって両立させていけば良いのだろうか。

それがここ3週間の大きなテーマ(の一つ)となりました。

二者択一ではない

・つきつめればつきつめるほど他の解釈が認められなくなる。つきつめるのは楽しいけど、他者の良さを認められないのはつまらない。

・他の解釈を認めようとすると、つきつめたい気持ちにストップをかけなければいけなくなる。他者の良さを認められるのは嬉しいけど、つきつめないのは物足りない。

どうしたら良いのか?というのを考えている間、私の心は主に上記2つの心情を行ったり来たり…でした。

どっちかをやろうとするともう片方が足止めを食らうという感じで、全然うまくいきませんでした。

二者択一のようになってしまっていました。

でも、二者択一ではないはずだ、と思いました。

物差しを増やすこと、出し入れすること

二者択一でないのならなんなんだ?

と、グルグルと常日頃考えていたのですが、最近ふと、二者択とは違う別の感覚がなんとなく腑に落ちたような気がしました。

つきつめることは、音楽に関する自分の価値観の物差し1つをある一定の方向にぐいぐい伸ばしていくような感じで、色々な音楽や演奏を楽しむことは、価値観の物差し自体の種類や数を増やすことなのかな、と。

こうして書くとすごく当たり前のことのように思えて、こんな当たり前のことが、私は今までどうしてわからなかったんだろう…、と愕然とするのですが。

今までは、自分が一生懸命伸ばしてきて物差し1つだけを握りしめて、色々な音楽や演奏をひたすらその物差しではかり続けてきたのかもしれません。

だから、自分の物差しではかれないものを拒否したくなったし、反対に全く別の存在に会った時に、物差しではかることをやめなければいけなくて、物足りなかったです。

物差しの種類を「増やすことができる」ということに気がついていなかったし、そもそも「種類を増やす」という選択肢自体がありませんでした。

価値観の物差しの種類を増やしながら、同時にその中の1つか2つの物差しを、特に伸ばしていけばいい。

伸ばしたい物差し以外は、まあ、1cmの長さでも充分だ。短くても色々な物差しを持てた分だけ、今まで理解できなかったものを楽しめるチャンスが増える。それらを、機会に応じて出し入れすればいいんだ。

そういうイメージで考えると、すごく楽になる、ということに気がつきました。

「良い」の基準を下げるのではなく、種類を増やす

言い換えれば、自分の中での「良い」の基準を下げるのではなく、「良い」の種類を増やす、ということです。

「良い」の基準を下げるのは苦しいし嫌だけど、そうではなく単純に種類を増やすことができれば、楽しめるものが増えます。

また、それによって自分自身の器も広がるように思います(正確には、広がると良いなあ、と思います)。

それが、全然知らない人の音楽でも、目の前の人の音楽でも、一緒に演奏している人の音楽でも。

自分の狭い視野にとらわれたり、殻に閉じこもるのは、やっぱりとてもつまらないので、自分がつきつめたいものも大切にしながら、もっと色々な演奏や音楽を楽しんでいきたいです。


以上が、私がここ最近考えたことになります。

もしも何かの参考になれば幸いです。

お読みいただき、ありがとうございました。