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語られていることがすべてじゃない、という視点を持つこと

/ ニッケルハルパ奏者

先日公開になったアンドフィーカさんの動画でも少しご紹介したエピソードと、私が伝統音楽を伝える際に大事にしたい考え方について、書いてみます。

フィドルの先生の話

私がニッケルハルパで留学した学校では、ニッケルハルパとフィドル(バイオリン)が混ざって授業を受けていて、先生もそれぞれの楽器の先生がいました。

その中のフィドルの先生の話です。

その先生(演奏家)は、十代の頃に、近所に有名な演奏家が住んでいたということで、その人のもとでフィドルや伝統音楽を教わっていたそうなんです。

でも、ある時それがプレッシャーになり、自分の演奏と伝統との間で苦しくなってしまったそうです。

「このまま自分は伝統を受け継ぐ者(その演奏家とそっくりに弾く人)として弾いていかなくてはいけないのか?」と。

最終的に、その先生はある学校の音楽科に入学し、その学校の先生と一緒に、今の自分にもつながる演奏スタイルを、自分で少しずつ作り始めたのだ、ということでした。

それがその人の転機になったそうです。

そういう話を聞く機会があまり無かった(と思う)

近所の演奏家から教わること自体は、その先生にとって、たぶんすごく良い思い出でもあったと思うんですよね。嬉しかっただろうし、楽しかったと思うんです。

ただ、伝統と自分の個性との間で板挟みになるのもわかりますよね。

で、私がこのエピソードを聞いた時は、「まあ、そういうこともあるよね」くらいな感じだったのですが、後から振り返ってみたら、そういう話をしてくれた人が他にいなかったんですよね。

「小さい頃に近所の演奏家に教わった」という話自体は、伝統音楽の文脈ではすごくよく聞くんですよ。

でも、たいていその話はそこで終わりで。

「良い話だな」って感じの印象なんですよね(もちろん、実際良い話なんですけど)。

だから、その先生がその話をしてくれて、プレッシャーとか苦しい思いとか、感じる人も当然いるよな、色々な思いがあるよな、っていうことが実感できて、良かったなと思ったんです。

その先生の話を聞かなかったら、そういう話(近所の演奏家に教わった、という話)を全部「美談」で片づけていたかもしれなかったので。

語られていることがすべてじゃない、という視点を持つこと

伝統音楽について私が日本でお話しする時に、意識したいなと思っていることがあるんです。

それが、「語られていることがすべてじゃない」という視点を持つことです。

正直な話、語られていない以上は、その内容を私が知るすべは無い(語られなければ知りようが無い)だろうとも思いますが、

それでも、この認識は必要だと思っています。

特に、苦しかったこととか、つらかったこととか、ネガティブな経験って、あまりべらべらと初対面の人に話す話題じゃないですよね。

その先生は、自分の経験が生徒にとってプラスになるだろうと思って、教育的配慮で話してくれたと思うのですが、皆が皆そうオープンでもないので。

話されていないことも実はあるよ、というのを、わかっておきたいと思っています。

「自分が聞いた話を、そっくりそのままその部分だけ、ナイーブに信じすぎるのは、ちょっと危険かも」と思うんですよね。日本でもそうだと思いますが。

言わないけどそう、みたいなことってありますもんね。

同様に、あまりにも単純化した言い方を多用するのも気をつけよう、って思っています。

たとえば、スウェーデン人のことを紹介する時もそうなのですが、「スウェーデン人はこういうことは気にしません」みたいな言い方は、まあもちろんしちゃうんですけど(笑)、あくまで「半分本当、半分冗談」くらいのつもりで言うに留めた方が良いな、と思うんですよね。

まあ、つい言ってしまいますけどね(笑)冗談で。

「近所の演奏家に教わった」という話も、本当に何も、「ネガティブな思い(プレッシャーとか)を一切感じてこなかった」という人もいるかもしれませんが(かなりメンタルの強い人ならありえる)、

言わないだけで、実は色々な思いを経験している人が大半なんじゃないのかな、と私は想像するんですよね。

特に、十代って色々なことがあるので。

その年頃に、自分の好きな音楽や、自分自身に対して、暗い気持ちを抱えない人ってほとんどいない気がするんです。

コンプレックスだらけの年齢だと思うので。

だから、今回の話に限らず、「語られていないことがあるんだ」ってことを、わかっておきたいなと思っています。


ということを私が意識するようになったのは、実は最近な気がします(笑)偉そうに書いていてすみません。

私も、わかりやすくするために、単純化した伝え方をしてしまう時もあるのですが、今回のようなことをこちら側が意識することなく伝えてしまうと、聞いている人の中には、違和感を感じる人も出てくると思うんですよね。

そういうことを発信者側がやり続けてしまうと、(東京や日本での)ニッケルハルパやスウェーデン伝統音楽業界全体に対する「なんとなくの違和感」や「なんとなくの不信感(うさんくささ)」に繋がってしまうだろうし。

実際、ちょっとそういう状況になっているような気がしているんです。

これは私の勘違いではないと思うんですよね。というか、私自身がそう感じてきましたので。

(ニッケルハルパやこの音楽自体に対してではなく、「日本でのこの業界」に対する得体の知れなさ、ですね)

なので、自分の思うところを書いてみました。