スウェーデンの伝統音楽について調べている中で、最近あらためて感じたことを書いてみたいと思います。
自分で調べること自体が楽しい
正しい知識を身につけることはもちろん大事なのですが、私はおそらく誰かに正しい知識を(日本語で)教わることよりも、「自分で調べること自体を楽しいと思っているらしい」ということに気がつきました。
スウェーデン語の文章を読むこと、録音を聞くこと、演奏家の話や演奏を聞き比べること、わからない単語を調べること、方言を解読すること、など。
時間をかけて少しずつ、点と点がつながり、線になることを実感するのを楽しんでいるのだと思います。
それが間違った理解や解釈につながって、「あ、私、間違えてた」と思うことも何度もありますが、間違えないことや正しい知識だけ与えられることよりも、「わからないことを試行錯誤して調べること」「その結果、間違えていたと気づくこと」の方が自分にとって意味があり、大切なことだと思うようになりました。
そして、そんな時に大事なのが、他の人と比べない、ということです。
自分よりもそれについて詳しい人は世界にたくさんいるかもしれないし、自分が調べていることや発信することに関して、すでに誰かが発信しているかもしれませんが、そのことと、自分が今やっていることの意味というのは、全然別の話だと思いました。
「自分がやる」という行為自体に意味があるので、自分よりも詳しい人がいるからやめるというのはもったいないですし、他の人に遠慮する必要もありません。
「その世界の中での自分の立ち位置」よりも、「自分自身にとっての、それをやる(学ぶ)ことの価値・楽しさ」を見続けて良いのだ、と感じています。
(楽しく一生懸命何かを学んでいる人に対して、「あの人の言うこと間違っている」とか「あの人の演奏ってこうだよね」みたいに茶々を入れるのは、かっこ悪いですしね)
素晴らしい演奏家が何千人もいる
最近、YouTubeや音楽配信等とはまた違うかたちで、スウェーデンの伝統音楽の古い録音や演奏家のインタビューをたくさん聞くことができるのを知り、とても嬉しくなりました。
裏ルートとか違法アップロードではなく、ちゃんとしたところが公開しているデータベースです(笑)
そうして調べていくと、自分が知っていることなんて本当にわずかなことでしかなくて、私の知らない素晴らしい演奏家(録音やインタビューにも残っていない、名も残っていない演奏家)がきっとこの後ろに何千人もいるんだな、と思って嬉しくなりましたし、
そんなにたくさんの演奏家たちがそれぞれに曲を演奏してきたのなら、「1つの正しい演奏」みたいなものは、やはり存在しないのだな、と思って、気持ちが楽になりました。
自分の視野というか、世界が広がった気がします。
ネットが普及している今は、誰もが同じ音源や情報にアクセスできるようになって、皆が皆、「その曲のそのバージョン」を同じように真似できる状態です。
それはそれで良いことでもあると思いますが、昔から考えたら、これって少し異常(という言い方も微妙ですが)というか、世界中の皆がその演奏を知っているのってすごいことですよね。
昔は録音も無かったわけですから、自分が過去に聞いたり教わった曲も、記憶とともにどんどん変わっていってしまうのが当然ですし、それが人から人へと伝わっていく過程で、違う曲になっていくのも普通のことだと思います。
その、変わっていってしまう1つ1つの演奏や、1つ1つの思い出話、それぞれに意味があり、どれも正解で大切なのだと私は思うので、
昔の録音やインタビューの1つ1つを、自分にできる範囲で真似したり、すくい上げたりできたら、とても楽しいだろうな、と思っています。
画一的なものを目指すのも1つの方法なのですが、一方で、ローカルな1つのものにフォーカスしていくことでしょうか。
これは、正しさを気にかけているときっとできないことだと思うので、自分に自信を持って、そういうことができたら良いなと感じています。
という感じで、今回は、伝統音楽について調べる中で思ったことを書いてみました。
データベースについては、機会があればご紹介したいと思いますが、まだしばらくは秘密にしておきたい気持ちもあります(笑)せこい。私、せこいですね。
また明日以降、演奏家や伝統音楽について色々紹介していきたいと思います。