峰村茜のホームページへようこそ!どうぞごゆっくりご覧ください。

スウェーデンの歴史④ヴァイキング時代への移行

/ ニッケルハルパ奏者

ニッケルハルパを知るためにまずはスウェーデンの歴史の流れを知ろう!ということで、スウェーデンの特番「Historien om Sverige(スウェーデンの歴史、2023年放送)」を見てメモしたことを書いています。

前回までで、石器時代・青銅器時代・鉄器時代(の5世紀まで)を見てきました。

今回は前回の鉄器時代の終わり頃の出来事から、ヴァイキング時代のはじまりの頃までを見ていきます!

ヴァイキング時代は中身が濃いので、少し大変ですが楽しみです。何回かに分けて投稿していきます。

(今回、少し私の余談や感想がノイズで入っているのですが、余談や感想は「※」で書いているので区別していただけたらと思います)

6世紀ー暗く長い冬の到来(大災害)

ヴァイキング時代よりも少し前のこと。太陽が数年間顔を出さない、暗く長い冬が訪れました。

536年ー3年間続いた長い冬

536年頃、最悪の大災害(自然災害)が起きました。

約3年間(※もっと長いとも言われる)に渡り、太陽の光と熱が地上に届かず、夏の昼間でも暗く寒い「長い冬」が続いたのです。

これは、536年に北半球のどこか(アイスランドや北米等)で大きな火山噴火が起きたことにより、ガス(噴煙)が充満した影響で、太陽の光や熱がさえぎられたことが原因だと言われています。

地球の寒冷化です。

(さらに、その後熱帯地方でも同じような噴火が起きたことから、寒冷化が激化しました)

特にひどかったのが、スカンジナビアを含む北部の土地。植物は育たず、気温も上がりません。北欧では、「寒さ」と「飢え」により人口が半分ほどになったと言われます。

北欧神話と人々…フィンブルの冬

この出来事は人々にとって非常につらく苦しい、インパクトの大きな出来事でした。

「北欧神話」にも影響を与えたと見られます。

北欧神話では、「世界の終わり」であるラグナロクが、「フィンブルの冬(Fimbulvintern)」とともに始まる(フィンブルの冬がラグナロクの前兆である)、とされています。

この「フィンブルの冬」とは、「3年間一度も夏が訪れることのない厳しい冬(大いなる冬)」とされており、これがまさに536年頃の大災害の経験を受けた記述なのではないか、と言われています。

人々は、この長い冬を「世界の終わりが近い」ととらえたのかもしれません。

厳しい自然ー神々に祈る

フィンブルの冬だけではなく、冬の嵐、荒れた海など、自然に対して働きかける時、人々は神に祈りました。

北欧では、たくさんの神々が信じられていました。

たとえばオーディン(Oden)。彼は戦をつかさどり、主に戦士たちによって讃えられました。

一方、農民たちにとってはトール(Tor)、フレイ(Frej)、フレイヤ(Freja)などが最も重要な神々でした。彼らは天候や植物、実り(豊穣)において力を持っているとされていたからです。

厳しい自然にふれた時、人々は「どうすれば神の助けを得られるのか?」を考え、神々への供物をささげました。

数年後、数十年後ー気候の回復、文化・社会の形成

大災害が起きて数年後、気候は少しずつ回復し、作物が育つようになっていきました。

そして、数十年・数百年の間に文化や社会も再び形成されていきました。

時代はヴァイキングの時代へと入っていきます。

7世紀ーたくさんの小国がならびたつ

7世紀以降のスウェーデンは、こんにちのような1つの国ではなく、たくさんの小国がならびたつ土地でした。

中心地(Centralplats)

特に人々が集まる場所は「中心地(Centralplats)」と呼ばれました。

中心地(Centralplats)において、統治者たちは交易をコントロールし、戦争を計画しました。

ーウップオークラ(Uppåkra)

なかでも最大規模の「中心地」の1つがスウェーデン南部の「ウップオークラ(Uppåkra)」でした。ウップオークラは、ルンドから少し南に行った辺りにあります。

ウップオークラからは、金でできたたくさんの人型の細工品や、儀式に使っていただろうと思われる盃などが発掘されています。

当時、人々は儀式を行うことにより、世界に対する共通認識を作り、社会を1つにまとめあげていたと見られます。

ーガムラ・ウプサラ(Gamla Uppsala)

また、スウェーデン中部のメーラダーレン(メーラレン湖周辺の地域。今のストックホルム周辺でもあり、当時栄えていた地域の1つ)の中心地の中でも、重要な役割を果たしていたのが「ガムラ・ウプサラ(Gamla Uppsala)」でした。

ここには、スヴェア人の王の居城(kungasäte)があったとされています。

(※スヴェア人というのが以前から番組によく出てきていて、特に説明は無いのですが、「今のスウェーデン王国の基礎を築きあげた部族」という風にとらえていただければ良いみたいです)

ガムラ・ウプサラには、いくつかの大きな丘(墳丘墓/古墳)がありますが、これは7世紀頃の王の墓だと言われています。

これだけ大きなものを建設するには、強大な組織力と労働力が必要だったと思われ、彼らがいかに大きな組織を持っていたかがわかります。

◎ガムラ・ウプサラの動画(公式チャンネルより)↓この大きい丘がお墓です。

(※ガムラ・ウプサラには何回か行きましたが、最初に行った時に友達がとてもトイレに行きたがっていて(私も行きたかった)、トイレを探しまわった記憶があります。教会の横に誰でも使えるトイレがあり、しかも無料だったので(スウェーデンの公衆トイレは有料が多いので)「へえ~」と思いました)

河川や海沿いに存在→水路(交易ルート)の確保

こういった中心地はスウェーデン全体に存在していました。

特徴としては、主に「河川や海沿いなど、水辺の地域にあった」ということです。

こういった土地は交通の便が良く、人々の行き来が容易であったためです。

当時はまだ、今のスウェーデンの国土の多くが海面下(水面下)にありました。

(現在よりも海面が6mほど高かった地域もあるそうです)

移動手段としても、(以前の番組でも出てきた通り)陸路よりも圧倒的に水路の方が速く(水路は、今で言う高速道路のような感じでした)、交易にも多く使われてきました。

こういった交易ルートは人々にとって非常に有益なものだったため、小国の王たちは「交易ルートを支配する(自分のコントロール下に置く)」ためにしのぎを削っていました。

8世紀ーヴァイキングの時代と社会について

詳しくは後述しますが、8世紀の半ば頃には、すでにヴァイキングたちが活動していたと見られます。

(※番組では特に説明はありませんでしたが、ヴァイキングたちは、略奪をしに行くだけでなく、普段は交易を行ったり、地元に住み農民・漁民としても生活していたそうです。Wikipedia「ヴァイキング」より)

そんな8世紀に、メーラダーレン(さきほども出てきた、ストックホルムを含むあたりの地域)の交易を支配していた地域の1つが「ビルカ(Birka)」です。

このビルカの様子から、当時の社会の風景、ヴァイキングたちの生活などをのぞいていましょう。

ビルカの町

ビルカは他の中心地と比べ、より「町」として発展していました。

ビルカに住む多くの人は長距離の交易(貿易)や手工業に携わっており、町は「人々が出会い、物を互いに交換する」ための場所でした。

品物として多かったのはやはり日用品ですが、その他にも琥珀や、はるか南方からもたらされた高価な布などが取引されていました。

議会/裁判(ting)の開催

人々が出会うということは、衝突やケンカも絶えなかったことを意味します。

そこで、もめ事を解決するため、人々は屋外で議会(ting。会議/裁判/審議)を開きました。

屋外の議場として使われた場所の一例が、ヴェストマンランド地方のアーヌンズヘーグ(Anundshåg)などです。

こういった議場には、彼らにとって重要な場所が選ばれ、幾世代にも渡って同じ場所が使われてきました。

◎アーヌンズヘーグの動画↓

(※番組を見ていて衝撃的だったのですが、私、スウェーデンで友達と車に乗っていてどうしてもトイレに行きたくなり、「なんか史跡っぽいのがあるからトイレあるかも!」という友人の機転でたまたま立ち寄った場所がありました。結局そこにトイレは無くて、「石がたくさん並んでいるところをトイレを我慢しながら丘の上までただ歩いた」という思い出があるのですが、その思い出の場所がここだったみたいです)

(※トイレを我慢しながら撮った写真↓)

(※手前の説明文に、「ここは中世の間ずっと裁判(tinget)」が開かれた場所、と書いてあります↑当時は説明書きを読む余裕など全くありませんでしたが、7年越しに理解しました)

議会/裁判の様子

当時の議会ですが、男女ともに地域で力のある人達が集められ、年に数回開催。大きな決断がされました。

(この議会=「ting」という言葉ですが、こんにちの「議会(riksdagen)」とは異なる用語で、「ting=古代ゲルマン社会において政策決定を行った会議体」(Wikipedia「シング(ゲルマンの集会)」より)として使われている用語のようですが、今でも「県議会(Landstinget)」や「地方裁判所(Tingsrätt)」等の言葉として残っている単語でもあります。また、今回「議会/裁判」など表記が揺れていて申し訳ありません。どちらもtingのことです)

当時の記録(記されたもの)から、ヴァイキングたちがどのような議会・裁判をしていたのかがわかります。

たとえば、離婚訴訟、窃盗や殺人、土地の権利や遺産相続に関する裁判です。

中世以前は、法律が明文化されておらず、口頭で伝えられていました。そのため、法律が「詩」の形式をとっており、そらで覚えられるようになっていたのです。

裁判(議会)は協議制で、12人の裁判官(議員)がおり、法律の解釈をし、決定をくだしました。

裁判官の中には女性もいました。さきほども書いた通り、ここに集められた人々は地域での有力者たちです。当時は女性にも相続権があり、大きな資産を持っていた女性もいたので、裁判官として呼ばれていました。

議会/裁判ではたくさんの話し合いが行われました。この頃の社会では、かなり多くの人が裁判で話をする権利が与えられており、民主的な社会だったと思われます。

土地の権利についてですが、当時はまだ土地の権利について、契約書を書くという習慣がありませんでした。そのため、土地をあらわす「木の棒」を使い、棒の持ち主がAさんからBさんへと変更されることで、土地の所有者もAさんからBさんへと変更された、というようにみなしていました。

そんな議会/裁判で集まる機会を利用して、彼らは他の話題についてもたくさん話をしました。

その1つが、たとえばヴァイキングとしての旅路や、「略奪(Plundringar)」といった遠征活動についてでした。


次回、ヴァイキングたちの略奪等の活動を見ていきます。

また、「後述する」と書いていたヴァイキング時代のはじまりについても次回以降で触れますね。

アーヌンズヘーグの史跡は、番組を見ていなかったら私の中で「トイレを探して立ち寄ったよくわからない史跡」として処理されて終わっていたので、歴史的に重要な場所だと知ることができて良かったです。

ちなみに、その時に車ででかけていたのは、ヴェルムランド地方の伝統音楽のイベント(ラーンセーテルのステンマ)に行っていたからです。ヴェルムランド地方からウップランド地方まで帰ってくる途中で、ヴェストマンランド地方を通ったみたいですね。

★ラーンセーテルのステンマについて書いた記事→伝統音楽のイベント「stämma(ステンマ)」冷房と、歌のワークショップの話

次回は明後日くらいにまた更新できればと思います!