あ、と思ったら壁にぶつかりました。
本当の壁ではありませんが。
私はアレクサンダー・テクニック(という身体の使い方を学ぶもの)を習っているのですが、それで今までとても満足(感謝も)していたのですが(今もですが)、今日一つ問題を発見しました。
それは「アレクサンダー的に理想的な姿勢と、自分が全力で弾いた時の自分の姿勢が違うかも?」と思ったということと、「しかも自分の姿勢をその理想的なものに近づけようという気が私にはどうやら無いらしい…」と気付いたことです。
今日レッスンで弾いた時も、まず弾いてみて「どうでしたか?」と聞かれたのですが、そこで私正直に「身体のことはあまり考えませんでした」と言ったのですね。弾いている間は曲のことを考えていたので。そしたら先生に「(身体のことも)考えてください」と言われたのですが(半分ノリツッコミかもしれませんが)、そこで私は「はい」と返事をしながら内心『嫌だなあ』と思っていました(すみません…)。
本音を言えば、弾いている最中は、身体のバランスや姿勢のことを考えるよりもただもっと音楽を感じたいです。弾いていない時に身体を意識するのは良いのですが。
それで、レッスン中とそれ以降はもう、「そう思う自分」と、「先生のやり方に合わせようとする自分」との葛藤でした。
他にも「こっちの方が良いですよ」と言われた姿勢で弾いたのですが、その姿勢の方が良いことはもちろんわかっているし先生は的確なのですが、その姿勢で弾いた途端私の中の暴れ馬が『嫌だ!これじゃつまらない!こんな行儀良い演奏はつまらないっ!』と暴れ出すみたいな感じで、「うーん困ったなあ…これはどうしたらいいんだろう?」と思っていました。
(レッスン自体は非常に有意義で効果的なものです。保証します)
そもそも、なぜその葛藤が今になって現れたのかというと、私が『遠慮するのは嫌だ。全力で弾きたい』と思い始めたことがあると思います。
今まで私は、理想的な姿勢や音を求めて、色々なものを参考にしながら弾いていました。だからある意味自分のやり方というよりも、正解を求めて弾き方を模索していたところが大きかったです。それはそれで良いと思います。学びが大きいです。
でもここ数日『自分の意志』というものがそこに加わるようになって、さらに『感情表現』も加わるようになったので、客観的な理想の演奏よりも、自分の現状にフィットする方法や自分の理想の方が優先順位が高くなってきました。
もちろん理想的な姿も素敵ですが、それよりも私は「自分らしい表現」の方に魅力を感じているようです。
それで、自分の弾きたいように弾こう!と思ったら、アレクサンダー的にダメっぽいことがもうやりたくてやりたくて。ワクワクしちゃうくらいなんです。私、変かもしれません。
でも楽しいと感じることはだいたいその人にとっての正解であることが多いんですよね。理屈で間違っていても。
また、普段の姿勢や身体に関することはアレクサンダーで学んだことが本当にとても役立つし、健康にも良いし、それが演奏時にも(無意識に)生きていると感じています。(でも直接それ通りに弾くのは嫌みたい)
だから、このことに関しては後日アレクサンダーの先生にご相談しようと思います。相談したらまた考えが変わるかもしれません。←質問して、回答を頂きました!3/31「身体の使い方と自由な演奏について。質問の答えを頂きました!」
そんなことを考えた今日でした。こういうのはとても良い経験です。
今日の動画はこちらです。Olov Johansson & Catriona McKayの「Little Fiddler in the Fire」。「燃え盛る炎とピアノの中に小さなフィドル奏者を見た」ので作った曲だそうです。カッコいいです。本当に。ピアノが燃える姿は結構衝撃的ですが。
私の動画は233曲目「Polska från Lövstabruk」です!ゆったりした弾き方が特徴的なニッケルハルパ奏者Ceylon Wallin(セイロン・ヴァリーン)の演奏のイメージがとてもあります。
今日もお読みいただき、ありがとうございます!