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「完璧にやる」ことが人を楽しませる唯一の方法ではない。

/ ニッケルハルパ奏者

先日、「ニッケルハルパの楽器紹介の仕方って難しいなあと思う」といったことをブログに書いたのですが、楽器紹介だけでなく、どんな話題であっても「人前で話をする時にわざとらしくなりたくないなあ」という想いを最近の私は抱いています。

わざとらしいのが何なのか(何をもってわざとらしいとするのか)というのも微妙な問題ですが、私自身が自分でわざとらしいなと思う自分の言動は、たぶんわざとらしいんです。

(反対に、一見わざとらしそうな言動でも自分でそう思わないようなら大丈夫なんです)


それで色々試しながらなんとなく思ったのですが、「できる自分を見せよう」と思って完璧にやろうと思うと、だいたいダメですね。

完璧にやろうとして必死すぎて隙が無かったり、あとは完璧な話の流れにしようと思ってしまってかえって唐突な話になったり、小手先の技術に頼りたくなって全体的に崩れたり。

はっきり言って、色々準備するよりも、なんとなくただ普通に思うがままのことをすんなり話した方が良いかも…?と思ったりしています。

わざとらしさに対してだけではなく、なんか全体的に良いような気がするんです。

(でも準備が無駄だとも思わないけど)


人前で、ただなんとなく喋る…なんて、少し前の私だったら絶対にやらないことだったかもしれません。

(というかできなかった。する勇気が無かった。なんとなく話す時間があるくらいなら、少しでも多く的確な情報を話さなきゃ!と思っていた)

こう書くとなんだかバカみたいですが、トークでも演奏でも、以前はもっと「全てを計画的に進めなきゃ」と(たぶん)思っていたし、「できる自分を見せなきゃ」と(たぶん)思っていました。

(「全てを計画的に」というのが、実際はたとえ無理だとしても、少なくともそこを「目指さなければいけない」と思っていた)

たぶん、そうでないとバカにされるとか、評価されないかもしれない…という思いがあったのです。バカにされたくないだなんて、言葉にしてみると非常に単純な感情ですが、こういう感情って実際に抱くと強い恐怖心を引き起こします。

もちろん「楽しんで欲しい」という気持ちもありましたが、それですらも「自分が良く見られる(完璧に何かをこなす)こと前提で」という前提条件があった気がします。

人から「良く見られる」にこしたことはありませんが、「人を楽しませる」という意味では、『完璧に何かをこなすこと・自分が良く見られること』だけがその方法ではないのだ、と感じています。

自分ができないこととか、間違えてしまった話とか、実際に間違えてしまったりとか、弱点とか。かえってそういう話があった方が、聞いてくれている人と繋がれる感じがして、とても新鮮です。

こういうアプローチの仕方は今まであまりしてこなかった…ように思います(といっても、自分ではあまりよくわかりませんが)。


演奏もそうで、完璧に演奏するのを目指すのももちろん大事だけど、奏者がそれに必死になりすぎるとお客さんを置いてけぼりにしてしまって、「上手いけど微妙…」な演奏になるように思います。

(それでもそういう人は「上手い」時点ですごいのですけど。非常に失礼ながら上から目線で書きますと、スウェーデンで色々なコンサートを見た時、やはり若いミュージシャンには特にその傾向(完璧にやろうとして、お客さん置いてけぼりな状況)があるように感じました。それでもめちゃめちゃ上手いので、かなりすごいのですが)

完璧な演奏が求められる状況でなら、そのアプローチが必要かもしれませんが、それ以外の状況では別の方法をとっても良いし、むしろ別の方法の方がその人の魅力が出るかもしれないなと(お客さん側としても)思います。

(もちろん、必死で完璧なのに、「超楽しい」と感じさせる演奏をする方もいらっしゃいますが、そういう人は一見必死に完璧にやっているようでいて、ちゃんと本人の中に余裕や遊びがあるのだと思います。お客さんはそれを感じるのだと思います)


失敗する姿とか、恥をかく姿とかも隠さなくて良いし、隠さなくても良いと思えることで結果的にはより良いもの(完璧を目指すよりも良いもの)が作れるような気がします。

「気がする」だけでなく、実行できたら良いなと思います。

やり方はいくらでもある。