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そわそわする感覚について。「見る」より「見られる」を意識してしまっている。

/ ニッケルハルパ奏者

今日、初めて行く場所に行ったのですが、そこに行くまでの自分の状態とそこから帰りの自分の状態が全然違うということに気が付きました。

私は普段電車に乗っている時や歩いている時など、よく他の人を観察したりするのですが、その人間観察が今日の行きの電車の中や歩いている時には全然できなかったんです。

その時の感覚としては、他人を観察するよりも「自分がどう見られるのか」に意識が向いていたような感じがしました。不思議でした。そわそわとしていて、居心地が悪いような感じもしました。「他人を見る」ということがあまりできませんでした。

帰り道は全然平気で、自分がどう見られるかよりも周りを見ることができました。電車の中でずっと背中のリュックが開いている人が遠くにいて、誰か言わないかな?と思って見ていたのですが周りの人は誰も声をかけず(周りの人もスマホを見ている人ばかりだったので、気が付かなかったのかもしれません)、私もわざわざ歩いていって声をかける気にもなれず(空いていたので、何か盗られる気配はありませんでした)、10分くらい経ったところでその人が席に座り、リュックをお腹側に持ち直してやっと気付いたようでした。

以前、「見られる自分」を意識するのか「見る自分」を意識するのかで感じが変わる、というようなことを書きました。その時に「見られる自分」にばかり意識がいくと「見る自分・今ここにいる自分」への意識が希薄になり、演奏がふわふわしたり緊張したりするので、そういう時は「見る自分・発信者としての自分」を意識すると良いかも?というようなことを書きました。

今日は演奏とは関係ない外出だったのですが、以前書いたことをまさに自分の身でもって実感しました。やっぱり、意識が外側に向きすぎている時は居心地が悪いです。用事のある場所まで行ったら落ち着いたので帰り道は全然平気でしたが、本当に感覚が全然違いました。

初めて行く場所や慣れない場所ならしょうがない、というのももちろんありますが、できればどこに行っても周りを見る余裕が持てるくらい、普段の自分でいつもいられたら良いなと思っています。演奏などは特にそうだと思います。

これも練習かなと思うので、良い課題が一つ見つかって良かったです。本番の緊張にどう対応するかというのも、結局はこういう小さなことの積み重ねな気がします。

今日の私の動画はまた番外編(過去に既に投稿した曲)で「Polska efter Gustaf Strutz」です!

あとご紹介する動画はElin Jonssonの演奏する「Polska efter Jo Johansa」です!この方の動画は別の動画で知ったのですが、Jämtland(イェムトランド地方)の曲をよく弾かれているように思います。Jämtlandのフィドル奏者は私は全然詳しくないので、まだまだ未知数でおもしろいです。

スウェーデンだけではないと思いますが、私がよく見る民族音楽の奏者はどの楽器の人も上半身がとても安定していて(ということは下半身も安定しているのですが)、特に擦弦楽器なら肘をきちんと使っている(=肘がぶれずに曲がったり伸びたりしている。肘が使えていないと肘の曲げ伸ばしがうまくできていないので、「肘でできる動き」を「肩」を使ってやろうとしてしまい、結果動きが緩慢になる)と思います。「リズムに乗ろうとして上半身を動かすけど実際演奏にはリズム感があらわれていない」という状況を私も含めてやりがちだと思うので(今日の私の動画もその傾向があります)、そこを超えられるかどうかで演奏が変わってくるのだろうなと自分に対して強く思っています。

今日もお読みいただき、ありがとうございました!