Konsert till Ole Hjorths minneの和訳③です。
①と②はこちら↓
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳①
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳②
動画
前回の続き(13:41~)からの再生です。
前回までのあらすじ↓
Jonnyはストックホルムで働いていた頃、胃炎を患い、それを機に仕事をやめて、自分でちょっとだけ覚え始めていたフィドルの演奏に本格的に取り組み始めることにしました。
そこで「誰か先生に習いたい」と思ったJonnyは、良いフィドルの先生はいないかと探し回り、Ole Hjorthという人を見つけました。しかし彼に何度頼んでも、断られるばかりです。
そんな時、偶然地元のOrsaでワイヤーレコーダーのワイヤーを見つけ、それをきっかけにOleのためにひと働きしたことで、その見返りとして、無事Oleからのレッスンの約束をとりつけたのでした。
(→詳しくは和訳②の記事へ)
Jonny:そんな風にして、私はOle Hjorthのレッスンを受けることになりました。
ですのでまあ、(成し遂げたいことがあるなら)ちょっとした労働が必要ということですね。
(笑いが起きる)
また、(Oleが教えたがらなかったのは)単純に私が年をとりすぎていた(※フィドルを習い始めるには大人になりすぎていた)というのもあるでしょう。
こういう考えは現代でも生きていますからね。「楽器を始めるのに一番適した時期は、その人が生まれた瞬間だ」という。
(笑いが起きる)
スズキメソードとかね。
その時期に、私は合計10回のレッスンをOleから受けることができました。
彼は他の仕事などもしていましたから、忙しかったのですが、10回はレッスンができました。
そして10回目のレッスンが終わった後、彼は言いました。
「さあ、これから下(階下)の角のカフェに行って、Fika(コービーブレイク)をしよう。そこで、あなたにあることを教えましょう」と。
私は「わかりました」と言い、私たちはその通りにカフェに行きFikaをしました。
すると彼が言いました。
「つまり、こういうことです。
レッスンはこれにて終了。そして今回、ここ、ガムラスタン(ストックホルム旧市街地)のカフェバーにて,、あなたと私の演奏発表(コンサート)の機会を用意しました」と。
それが、公の場での私の初めてのコンサートでした。
私は、この時のことを二度と忘れません。
それがOle Hjorth(との出会い)です。
それ以降、私たちはとても親しい友人になりました。長い長い長い長い長い長い…年月の間。
さて、そろそろ音楽を演奏したいと思います。
Bingsjö(ビングフェー※ダーラナ地方の地名)の曲、「Min levnads afton(人生の夕暮れ)」という曲を演奏したいと思います。
その後に私自身が作った「Sorglåt(悲しみの曲)」。この曲は、Oleのお葬式で私が演奏した曲です。
では、演奏します。
(演奏する前に言っているのは、「マイクをどうするか」とか、「この辺に立つと良いでしょうね」ということです)
②(15:29~)Min levnads afton(人生の夕暮れ), Bingsjö
③(17:21~)Sorglåt av Jonny Soling(悲しみの曲、ヨニー・ソーリング作曲)
(19:56~)
(※以下、Jonnyがマイクを使っていないので、ちょっと聴き取りが曖昧かもしれません。違っているところがありましたらすみません)
Jonny:さて。私はもう1曲演奏すると約束してありますので。
次の曲は(さきほどの曲のBingsjöから)場所を移動しまして、私の出身地のOrsa(オッシャ※ダーラナ地方の地名)の曲になります。
Orsa Storpolska(オッシャのシュトールポルスカ(=大きいポルスカ、3パート構成のポルスカ))と呼ばれている曲です。
実は(Orsaも)Oleと少し関係があるからなんです。
というのも、Oleはヴェスパ(Vespa※イタリアのオートバイメーカーが作ったスクーター)に乗り、可能な限りのあらゆる、古い演奏家たちの演奏を録音してまわっていたんです。
私たちが1970年代(※伝統音楽のリバイバル期)にやっていたようなことを、彼はずっと以前にやっていました。
そして彼はOrsaのGössa Anders(ヨッサ・アンダーシュ)の家へも行き、演奏を録音していたそうです。
それは、フィドル演奏が価値のある何かであり、伝統音楽がその辺の音楽よりも価値のあるものである、と、私が気づくよりもずっと前の出来事です。
当時、私は大きなバンドでサックスを吹き、ジャズを演奏していました。
12歳の頃です。その頃の私にとってはそれが本物の音楽でした。
そしてアイススケートで滑っているような、そんな頃(少年時代)でした。
ではOrsaのStorpolskaです。
(※要するに「OleはOrsaの人では無いけれども、それでも今回Orsaの曲を演奏するのは、彼がOrsaの演奏なども録音してまわっていたから」という趣旨の内容だと思います)
※ちなみに、OrsaとOleの関係性は上で説明されていますが、Bingsjöとの関係性についても補足します。BingjsöはOleの師のHjort Andersの出身地なので、Bingsjöの曲はOleと深い関わりがあるのです。
④(20:48~)Storpolska, Orsa(オッシャで伝わる3パート構成のポルスカ)
※Storpolskaの「stor」は「big(大きい)」の意味ですが、「Storpolska」というと「3パート構成のポルスカ」という意味になります。これは主に曲の判別のために、こういう言い方をしています。通常のポルスカは2パート構成であることが多いのですが、2パート構成の方をあえて「Lillpolska(小さいポルスカ)」と言って区別する時もあります。たいていの場合、この呼び名自体が曲の固有名詞に似た扱い(特定の曲を指す)になっていることが多く、3パート構成のポルスカを全てこの呼び名で呼ぶわけではありません。
(続きは明日)
以上、Oleをしのぶコンサートの和訳③でした。
「Min levnads afton」は私の知っている曲と少しずつ細かいところが違っていて、こちらも良いなと思いました。
レッスンの後、コーヒーを飲みにカフェに行ったつもりが、「実は今からあなたがここで演奏するんだよ」と言われたら、とてもびっくりするでしょうね。でも良い経験ですね。
そういう話からも、Oleは良い先生だったんだろうなと思います。ちょっと無茶苦茶感はありますが(笑)
また、今回も含めて色々な人の演奏を見ていて思い出すのですが…。Bosse Larsson(ウップランドのフィドル奏者)が生きていた頃、動画の中で確か、Hjort Andersか誰かから「アイロンをかけるようにフィドルを弾くんだ」と教わったと言っていたと思います。
色々な人の演奏を見ていて、それをやっている人が実際に多いような気がしました。出身地に関わらず。音や音楽は跳ねていても、弓使いは落ち着いているというか。
明日の部分からはSven Ahlbäckも出てきますので、お楽しみに。
お読みいただき、ありがとうございました。