以前、「批判されるのが怖い」という話を書いたのですが、それの続きで思ったことがあったので書いてみます。
・前の記事→恐怖心について考える(自分が言われたら嫌な言葉をあえて考えてみた)
・関連記事→色々な人がいた方が業界全体が豊かになる(批判する人も含めて)
他の人が批判されているのを見て、なぜか自分もへこんだ
批判されるのって怖いんですけど、特に、「頑張っていること」に対して、批判とか否定されるとすごくつらいですよね。
先日、私とは全然関係無い人(でも私の目から見るととても頑張っているように見える人)が、本人のいないところで他の人にボロクソに言われているのを遠巻きに見てしまい、私は勝手にちょっとへこんだんです。
(私とは本当に全然関係無い人なんですけどね)
私自身は、心の中で「頑張れ~、私は応援しているぞ~」と思ったんですけど。
考え方が違うだけなのに、表面的に見て一方的に批判されるのって結構つらいよなあと勝手に思ったんです。
散歩していたら気が変わった
そこまではいつもの私の思考の範囲内なんですけど、そのへこんだ状態で、散歩をしました。
(私は普段、運動のかわりに散歩をするようにしています。好きな音楽を聞きながら)
そしたら、ふと「でも一方的に批判されるのも、そこまで怖いことじゃないのかも」とちょっと思ったんです。
サンドバックになっても良いかもしれない
上手く書けないのですが、一方的に批判される時(きちんと指摘してもらうのとは別)って、多かれ少なかれその人の名前とか存在が「他人のサンドバックに使われる」ということのような気がするのですが、
サンドバックとして使っている側の人は、きっといつか気づくと思うんですよね。
「本当に批判したいのは、相手ではなくて、自分の中のそういう一面だ」ということに。
それって、批判している側の人にとってはすごい成長で、学びだと思うし、気づいた瞬間に「感情的になって批判していた自分自身」を省みるようになる気がするんです。
「批判してた自分、恥ずかしいな」みたいな。
というか、私自身が誰かを批判したい時がだいたいそうなんです(笑)
後から反省するんです。「本当はこの人関係無かったな」、「○○さん、つっかかってごめんなさい」って。
ただ誰かを精神的にボコりたかっただけで、その相手は結局は自分自身だったんだ、と。
そこで自分が感情的になっていたことにも気づくし、自分の未熟さ(?)にも気がつきます。
だから、自分が批判される側にもしも立ったとしても、自分の名前が他人のサンドバックとして一時的に使われるくらいなら、まあいいかもな、って思いました。
それって、そんなに怖れることではないのかも、と。
(もちろん実際に殴られるのは絶対に嫌ですけど)
批判される側の余裕
最初に書いた「批判する人・される人」の構図も、そういう気持ちであらためて眺めてみると、そんなにたいしたことじゃないのかも、と思えました。
あらためて考えてみると、批判されていた人の方が実績がある感じで、余裕がある感じだったんですよね。
私は「つらそう」と思ったけど、本人は批判されても気にしていないかもしれないな、と。
むしろ批判する側に立つ人の方が、後で気まずくなるんじゃないか…という気もしました。
自分の意見を言うことと、他人を批判することのさじ加減って難しい(自分の意見は言いたいけど他人は批判したくない、という時の言い方とかが難しい)ので、批判というよりは、「ただ自分の意見を言いたいだけ」かもしれないですしね。
また、知らない所でもしも自分が批判されていたとしても、自分の周りの人はわかっているじゃないですか。
自分がどれだけ頑張っているかとか、どういう気持ちでやっているか、とか。
それだけでも実は充分で、そう思えるだけで意外と気持ちに余裕を持っていられるような気がしたんですよね。
そして、これは前に書いたことと同じですが、批判する人がいなくなるべきだとは私は全然思っていないので、批判する人も全然いて良いと思っています。
色々な人がいた方が、その業界とか全体が豊かになると思うし、色々な意見があって当然なので。
自分と違う意見の人もいて良いし、その人と違う意見を持つ自分もいて良いよね、と思っていたいです。
…ということを、散歩中に考えました。
まあ批判されたら嫌ですけどね(笑)
私はよくこういう心の動きについて考えたことも書いているのですが、それは自分が出す音と自分の心の動きが直結しているからなんですよね。
自分がオープンに、リラックスして、静かな心で自信を持って人前に立てる時は、良い音が出るんです。
なので、普段から自分がどういう考えを持っているのか、自分でも知りたいし、そういうのを表現する練習としてブログを使わせていただいています。
批判されるのが怖いなと思っていらっしゃる方の参考になれば幸いです。