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スウェーデンの歴史⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)

/ ニッケルハルパ奏者

引き続きスウェーデンの歴史を書いていきます。

昨日書いた分が少し駆け足気味だったので、間違ったことを書いてしまっていないか、かなり不安ですが、このままの勢いでやっていきたいと思います。

昨日は14~15世紀にかけて、スウェーデン(の各地域)がデンマーク王の統治下にあった時代と、カルマル同盟について簡単に見てきました。

今回は15世紀以降です。「スウェーデンの歴史と言えば…」でほぼ必ず名前が出てくるであろう、「グスタフ・ヴァーサ」が登場します!

ヘミング・ガッド(Hemming Gadh)

まずは、のちにグスタフ・ヴァーサの進言役となる、「ヘミング・ガッド(Hemming Gadh, 1450-1520)」についてご紹介します。

ヘミング・ガッドは上流階級(の中では下級)の生まれでしたが、自らの知能と戦略で、はるか上の立場まで、のぼりつめた人物です。

彼は司祭(präst)になるべく勉強をした後、リンショーピン(Linköping)の司教(biskop)の秘書を務めていました。

(※司祭よりも司教の方が上位職です)

その際、ステン・ストゥーレ(大ステン・ストゥーレ、Sten Sture den äldre、摂政)に見いだされたヘミング・ガッドは、教皇アレクサンデル6世のもとで侍従(kammarherre)として働くようになります。

教皇アレクサンデル6世は「世俗化した教皇の代表的存在(Wikipedia「アレクサンデル6世(ローマ教皇)」)で、非常に好ましくない(悪い)教皇でした。

そんなアレクサンデル6世のやり方から、ヘミング・ガッドは多くのことを学びました。たとえばその1つが、「無慈悲な戦略(情け容赦の無い戦略)」です。

この時にヘミング・ガッドが学んだことが、のちにグスタフ・ヴァーサの進言役として役に立つようになります。16世紀頃のことです。

活版印刷技術

さて、グスタフ・ヴァーサの時代へ移る前に、15世紀の活版印刷についても見ていきましょう。

ヨーロッパにおける活版印刷は、15世紀中ごろ、ドイツのグーテンベルクの発明により始まったとされます。

スウェーデンでは、1483年に印刷された本が、最初の(活版印刷の)本だと言われています。

活版印刷がなされる以前は、人の手による「写本」が行われ、とても時間がかかっていました。

それが、印刷技術の発明・発展により、文書の大量生産が可能に。

「マスメディア」や、「メッセージの伝達手段」としての役割を、文書(本)が担うようになります。

他にも、勉強方法の変化(多くの人が勉強することが可能になる)など、活版印刷技術は社会に大きな影響を与えました。

15世紀…ルネッサンス期

15世紀は、スウェーデンで初めての大学がウプサラに創設され(ウプサラ大学:1477年創設。北欧最古の中世大学)、スウェーデンは一歩ずつ、ヨーロッパへと近づいている段階でもありました。

時代はまさにルネッサンス。芸術面でも大きな影響があり、スウェーデン中で「新しいスタイルの芸術」が生み出されていました。

その筆頭として挙げられるのが、アルベルトゥス・ピクトル(Albertus Pictor)の絵画です。彼は当時最も活躍した画家でした。彼の作品は、スウェーデン中のたくさんの教会(の壁画)で見ることができます。

★例として、番組ではウップランド地方のテビー教会(Täby kyrka)の壁画が映っていました。こんな感じです↓すごいですよね。このトップの画像は「死者がチェスをしている所」だそうです。

ちなみにこのアルベルトゥス・ピクトルについては、番組ではあまり多くの説明はありませんでしたが、ニッケルハルパ的には結構重要です!

なぜなら、ニッケルハルパの歴史の話題で出てくる、「ニッケルハルパ(に似ている楽器)が描かれている、ウップランド地方の中世の教会の壁画(複数あり)」というのが、まさにこのアルベルトゥス・ピクトル(の一派)が描いたものだからです。

ただし、彼の描いた壁画のモチーフは当時のスウェーデンには無かったものだったりして、名前からしても「ドイツからスウェーデンにやってきた芸術家(ドイツ系スウェーデン人)」だと見られています。

そして、そんな彼が描いたものの中にニッケルハルパらしき楽器(ニッケルハルパかどうかは確定できない)があったとして、果たしてそれが「当時のウップランド地方にあったから描かれた」と断言できるかどうか?というと、非常に曖昧なところなんだそうです。

…なんて書いておいて私もあまり詳しくないのですが、ここが少しニッケルハルパと絡んでくるので、ちょっと注として書き足してみました。

★彼が描いた壁画について、もう少し知りたい方はこちらの記事もどうぞ→Sko-Ella(スコー・エッラ)の言い伝えー悪魔が怖れた女性

クリスチャン2世の台頭(16世紀~)

16世紀になり、ヘミング・ガッドがローマからスウェーデンへと戻ってきました。

ローマでの経験をもとに、彼はストックホルムのトレー・クローノル城(トレー・クローノル=「3つの王冠」)で、新しい世代の権力者たちの進言役(rådgivare)になります。

その新しい世代の権力者の1人が、グスタフ・エリクソン(Gustav Eriksson)でした。後にグスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)と呼ばれるようになる人物です。

グスタフはまずまずのエリート出身で、両親は高位の貴族、叔母は、摂政の小ステン・ストゥーレ(Sten Sture den yngre)を夫に持つ、クリスティーナ・イッレンフェーナ(Kristina Gyllenstierna)でした。

(※このクリスティーナは後でストックホルムの血浴の話に出てきます)

エリートではあったものの、王からはまだ遠い位置にいたグスタフでしたが、ヘミングが教えたこと(戦略)を徐々に使いこなすようになります。

クリスチャン2世との出会いと裏切り

1518年、(前回の記事に登場した実質的女王)マルグレーテがカルマル同盟を締結してから約100年以上が経っていましたが、同盟により選ばれた王たちはスウェーデンをコントロール下に置くことに難儀していました。

貴族たちによる抵抗勢力(スウェーデン独立派)が強かったのです。

当時の同盟王であった、デンマーク王クリスチャン2世(1481-1559)は、抵抗勢力を制圧しストックホルム占領(+スウェーデン王の座を得る)をもくろみますが、失敗し、代わりに「平和的な約束(交渉)」をすることに。

平和的な約束(交渉)というのは、「人質の交換」

です。当時は人質を交換し合い、互いに約束(交渉)を守る、というのがよく行われていました。

ここで人質として差し出された中に、ヘミング・ガッドとグスタフ・エリクソン(グスタフ・ヴァーサ)がいました。

彼らは「人質」として(=人道的な待遇を受けることを前提に)デンマークへ送られることとなりましたが、その道中、クリスチャン2世は約束を覆します。

彼らを人質としてではなく、単なる「捕虜」として捕らえ、刑務所に送ってしまうのです。

グスタフは1年以内に刑務所から脱走。ハンザ都市リューベック(ドイツ)へ逃げのびた後、スウェーデンへ戻ります。

この時の経験から、グスタフは「クリスチャン2世を信用してはいけない」と学び、その学びがのちに、後述の「ストックホルムの血浴」からグスタフの命を救うことになります。

また、ヘミング・ガッドはその賢さから、捕虜となったのちにクリスチャン2世に雇われ、ストックホルム制圧に協力させらることになりました。

このクリスチャン2世は、スウェーデンでは「クリスティアン・ティラン(Kristian Tyrann)」の名で知られています。ティラン(Tyrann)の意味は「暴君」です。

ストックホルムでの惨劇(ストックホルムの血浴、1520年11月)

さきほど少し出てきた、グスタフの叔母クリスティーナ・イッレンフェーナは、夫である小ステン・ストゥーレが亡くなった後、スウェーデン独立派としてストックホルムを守っていました。

依然として、なんとかしてストックホルムを占領したいクリスチャン2世は、クリスティーナに「良い条件」を出し、ストックホルムをあけわたさせることに成功します。

その条件とは、それまでクリスチャン2世に抵抗していた貴族たち(スウェーデン独立派)を含め、「誰のことも処刑せずに許すこと」そして「誰の財産も奪わないこと」でした。

1520年、命も財産もとられないことを条件に、彼らはストックホルム(スウェーデン王の座)をクリスチャン2世に差し出しました。

スウェーデン王となったクリスチャン2世は、それまで彼に反発していた貴族たち(スウェーデン独立派)を王宮に招き、戴冠式を行い、数日間続く晩餐会を行いました。

滞りなく行われた晩餐会の3日目、クリスチャン2世は王宮の扉を閉め、貴族たちを閉じ込めます。そこで大司教グスタフ・トロッレ(スウェーデン独立派と対立し、デンマーク側の立場にあった司教)が突然、クリスチャン2世に反発していた貴族たちを「異端だ・神への冒涜だ」とし、彼らの処刑を行うことを王に進言するのです。

本来、異端罪というのは「教会の教えに背いた際、命をもってつぐなうべき罪」であり、たとえば教会を物理的に攻撃したとか、そういう時に教会だけが裁くことのできるもので、王が行使できるものではありませんでした。

が、クリスチャン2世は処刑を実行。

スウェーデン独立派の人たちは100人以上が処刑されたり、火炙りになりました。

これが、1520年11月の「ストックホルムの血浴(Stockholms blodbad)」です。ガムラ・スタン(旧市街地)の大広場(Stortorget)で引き起こされた大虐殺でした。

★現在のガムラ・スタンの大広場は夏は観光客でにぎわい、冬はクリスマス・マーケットが開かれる、とても素敵な所です。

この血浴に関する計画がどのような経緯で行われたものなのかは定かではありませんが、クリスチャン2世はおそらく最初から、彼への抵抗勢力(スウェーデン独立派)を一掃する目的で行ったのかもしれません。

これで、彼に対する抵抗勢力のうち、多くの人が亡くなりました。

血浴をまぬがれた2人…ヘミング・ガッドとグスタフ・エリクソン(グスタフ・ヴァーサ)

そんな中、ストックホルムの血浴をまぬがれた人物が2人いました。

1人は、さきのヘミング・ガッド(捕虜となったのち、クリスチャン2世に雇われ、ストックホルム制圧に協力していた人)です。

彼はこの大虐殺の際、「フィンランド制圧のための遠征(説得)」に赴くように指示され、フィンランドへ向かっていました。しかし、大虐殺への参加は免れたものの、彼もフィンランドへの到着後、早々に処刑されてしまいます。これはヘミング・ガッドを信用していないクリスチャン2世による、計画的な処刑でした。

そして、ストックホルムの血浴をまぬがれた人物がもう1人。グスタフ・エリクソン(グスタフ・ヴァーサ。捕虜となった後に脱走し、スウェーデンまで戻った人)です。

彼は捕虜の一件で「クリスチャン2世を信用してはならない」ということを肝に銘じていたため、戴冠式や晩餐会の誘いに応じておらず、そのおかげで生き延びていました。

しかし、彼の家族・親戚の多くがストックホルムの血浴で殺され、生き残った者たちもデンマークの刑務所へ送られたこと、さらにデンマークの騎士たちがグスタフを捜しまわっていることを知り、ダーラナ地方へと逃げます。

そこで彼は、王クリスチャン2世への反乱を起こすため、ダーラナ地方の男性たち(兵士たち)の力を借りて抵抗勢力を作り上げていきます。

次回、グスタフがスウェーデン王になるまでと、王になってからの話に入っていきます。


この部分は、グスタフ・ヴァーサのドラマチックな人生の話に結びつく感じで、番組を見ている分にはとてもおもしろかったです。

「ストックホルムの血浴」は、凄惨な事件、という感じですが。

このクリスチャン2世、スウェーデンからの視点だとかなり極悪の暴君みたいに描かれることも多いみたいですが、デンマーク側からするとまた違う語られ方もするようで、興味深いです。

こちらに少し詳しく書いてあります→Wikipedia「クリスチャン2世(デンマーク王)」

グスタフ・ヴァーサについても、「正直名前は聞くけど、一体誰でどんなことをした人なのか?」というのは全然わかっていなかったので、今回の内容を見て「なるほど」と思いました。

では、次回も明後日くらいに更新したいと思います♪