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スウェーデンの歴史⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)

/ ニッケルハルパ奏者

「ニッケルハルパについて知るために、スウェーデンの歴史を知ろう」ということで、スウェーデンの歴史番組(「Historien om Sverige」)の内容をまとめた記事のシリーズです。

前回は1561年~16世紀終わり頃まで、グスタフ・ヴァーサが亡くなって以降の、ヴァーサ王朝の国王たちについて見てきました。

今回もその続きで、17世紀へと入っていきます。

17世紀~18世紀のスウェーデンは、「バルト帝国時代(スウェーデンでは「大国時代(Stormastkstiden)」)」と呼ばれ、バルト海をまたいでスウェーデン領がどんどん拡大していった時代だそうです。今回はその始まりの部分ですね。

ちょっと長くて大変かもしれませんが、見ていきましょう。

1570年代頃~、カール公爵と大司教アンゲルマヌスによる、カトリックの慣習の廃止

(※前回の内容…グスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)が亡くなった後、彼の長男エリク14世が王位を継承しましたが、エリクは弟であるヨハンとカールによって反乱を起こされ(1568年頃)、投獄されて亡くなります。ヨハンはスウェーデンの国王ヨハン3世となり、国を治め、その間、もう1人の弟カール(公爵)はスウェーデン国内の自身の領地を整えることに努めていました)

カールは、16世紀終わり頃にはスウェーデン国内全体でもかなり権力を持っていました。

グスタフ・ヴァーサの時代以降、スウェーデンはプロテスタント国となっており、カール自身もプロテスタントでしたが、スウェーデンにはまだまだ以前の「カトリックの慣習」が残っていました。

カールはこのカトリックの慣習をすべて、なくそうと努めました。

大司教アブラハム・アンゲルマヌスとともに、民衆をプロテスタントへ

そんなカールを手伝ったのが、新しいウプサラ大司教アブラハム・アンゲルマヌス(Abraham Angermanus)でした。

(※アンゲルマヌス(Angermanus)という名字が珍しいなと思いましたが、Ångermanland(オンゲルマンランド地方)出身であることに由来している名字のようです)

カールとアンゲルマヌスは、作物の実りの悪い年の原因を、「民衆が『良きプロテスタント信者』ではないからだ(彼らの罪によるものだ)」と考えました。

そこでカールはアンゲルマヌスに、各地区の民衆のもとを訪ねさせ、地域や村々に残る古い「カトリックの慣習」をなくし、人々が「より良きプロテスタント信者」となれるように働きかけました。

また、アンゲルマヌスは、「罪」を犯した人に対しては厳しい罰を与えました。

例えば、婚前交渉の罪です。

スウェーデンのカトリックの風習では、「婚約している男女間であれば、婚前交渉をしても良い」というならわしが村々に残っていました。アンゲルマヌスはこれを「罪である」と考え、複数の女性に婚約をし、さらに妊娠までさせていた男性(そういう人が何人もいたらしいです)に、鞭打ちの刑罰を与えました。

(※「婚約をすれば婚前交渉をしても良い」という発想が私にはよくわからなくて(婚約の有無に関わらず、婚前交渉自体が全部ダメそうな気がしたので)、自分の聞き間違いかと思って何度も見返したり調べたりしたのですが、どうやらこの意味で合っているみたいです。番組後半でも同じ風習について触れられていました)

ただし、アンゲルマヌスはあまりにも厳しすぎて、民衆の反発も強かったため、カールは彼をいさめることもしばしばでした。

1604~1611年、カールが国王へ即位→カール9世の治世

時とともに、カールの権力は強まっていきました。自身の領地だけでなく、スウェーデン全体において。

そこで、彼は当時国王であった甥のシギスムンド(Sigismund。ヨハン3世の息子。ポーランド国王でもあり、カトリックに改宗していた)をやぶり、王位を奪い、「カール9世」としてヴァーサ王朝第5代国王になりました。

※この部分、番組では「カール9世が力づくで王位を奪った」とありましたが、Wikipediaによると、当時プロテスタント国家となっていたスウェーデンと、カトリック教徒であった国王シギスムンドは相容れなかったため、民衆がカールを支持した結果、彼が王位を得るに至った、というようなプロセスも書いてあります。

※また、カールは「9世」という治世番号を名乗りましたが、こちらもエリク14世同様、「カール8世以前に明確なスウェーデン王カールが(8人も)存在していたわけではない」とされているみたいです。(Wikipedia「カール9世(スウェーデン王)」より)

カール9世は亡くなるまで7年間国王をつとめ、その後、息子のグスタフ2世アドルフに王位が継承されました。

※ヨーテボリに行った時に撮った、カール9世の銅像↓

(当時はこの人が誰なのかを全く知りませんでしたが、とりあえず写真を撮ったのでした。今では人々の待ち合わせスポットになっている模様です)

1611年~、グスタフ2世アドルフの治世と宰相アクセル・オクセンシェルナ

カールの死後、1611年に息子のグスタフ2世アドルフが王位を継承した時、当時彼はまだ10代で、助けが必要でした。

そんなグスタフ2世アドルフを手伝ったのが、宰相のアクセル・オクセンシェルナ(Axel Oxenstierna、1583~1654)です。

・宰相オクセンシェルナ…《新しい秩序》を作り出す。42年間宰相を務めた人物

アクセル・オクセンシェルナは約42年間、宰相(※宰相で合っているかわかりませんが、最高位の官吏)として働いた人物です。

彼は「スウェーデンの歴史の中でも最も長い間、力を持っていた人物」とも称されます。

オクセンシェルナはスウェーデンを「近代的な国家」にしようと試みました。

《①徴税制度の整備》

そのためにまず解決しようとしたのが、まず財政面の課題です。

グスタフ2世アドルフが国王となり、オクセンシェルナが宰相となった時点で、スウェーデンはすでに戦争中だったこともあり、財政はひっぱくしていました。

そこでオクセンシェルナは新しい徴税制度(徴税基準、skattelängder)を導入し、より安定的で平等な徴税を行うことに成功しました。

(また、この試みが結果的に「スウェーデンの人口の把握」にも繋がりました)

これら税収で得たお金は軍事資金となり、スウェーデンの軍事力はより強化されていきました。

グスタフ2世アドルフとオクセンシェルナ、この2人の組み合わせは良いコンビネーションだったと言われます。

グスタフ2世アドルフが戦争のために国外へ長期間赴いた際は、オクセンシェルナはスウェーデンに残り、「スウェーデンが戦争に引き続き参加し続け、かつ、多くの兵士を戦地へ送ることができるような、継続的な徴税制度」の維持に努めました。

《②司法整備(控訴裁判所の設置)》

オクセンシェルナは国家の司法も整えていきました。

当時のスウェーデンでは、法律が欠けている地域があったり、どの法律が適用されるのかわからない…といった場合が多くありました。

当時使われていた国法(Landslag)は、中世14世紀半ば以降のものであり(※おそらくマグヌス・エリクソンの法律)、既に何人かの王が「法の近代化」を試みましたが、挫折していました。

そこで、オクセンシェルナは、法を変える代わりに、裁判所(裁判官)を変えられるようにした(=上訴できるようにした)のです。これが、「スヴェア控訴裁判所(Svea hovrätt)」の設置でした。

これにより、裁判のやり直しを請求できるようになりました。

《③ストックホルムを首都とした》

さらに、グスタフ2世アドルフとオクセンシェルナは他のヨーロッパ諸国にならい、スウェーデンに首都を作りました。

首都ストックホルムの誕生です。

それ以前は、王のもとで働く者たちは皆、王の居所に合わせて移動していましたが、首都を設置してからは、王の居所に関わらず公務すべてがストックホルムで行われるようになりました。

ストックホルムは近代化された都市になっていきました。

※アクセル・オクセンシェルナ(スウェーデン語)↓

参考:Wikipedia「アクセル・オクセンシェルナ」

1617年、ストルボヴァの和約→スウェーデン領拡大。「バルト帝国時代/スウェーデン大国時代(Stormastkstiden)」の幕開け

グスタフ2世アドルフとオクセンシェルナは、対ロシアの戦争のため軍を送りました。

この頃、ロシアは内乱の影響で弱体化していたため、スウェーデン側は戦争に勝利。

1617年、ストルボヴァの和約が結ばれ、スウェーデンはロシア側へと領土を拡大します。(Wikipedia「ストルボヴァの和約」

ロシアをバルト海沿岸から遠ざけることに成功したスウェーデンは、より一層、バルト海付近において力を持つことに。

スウェーデンの「バルト帝国時代(大国時代)」の幕開けです。

1628年、戦艦ヴァーサの完成と沈没

(※歴史や戦争とはあまり関係無いのですが、ここで有名なヴァーサ船についても触れておきます)

グスタフ2世アドルフは軍の強化を図りました。

まずは陸軍。そして海軍。

海軍増強のため、強い戦艦を作ろうということで完成したのが、「ヴァーサ(Vasa)」という船でした。

ヴァーサは非常にお金のかかった船でした。スウェーデンがいかに強く、また富の国であるかを国外に見せつける意味も込めて、大砲なども備えて数年間かけて造られました。

1628年8月10日、完成したヴァーサがいよいよ航海に出ました。

しかし、人々が熱狂的に見守る中、海へと勇ましく漕ぎ出した豪勢な船は…わずか1300mほど進んだ所で沈没してしまいます。

原因は、船の重心が高すぎて、バランスが悪かったからです。

その後、沈んだ船の引き上げを試みましたが失敗。

船体は333年間海に沈んだままでした。

が、20世紀半ばの調査でこの船体が復元可能な「良い保存状態」でいることが判明。

1961年に引き上げに成功し、ヴァーサは、今では「最も良い状態で保存されている17世紀の船」として知られ、博物館に展示されています。

※このヴァーサ博物館には私も行ったのですが、ガイドツアーで話も聞けて、とてもおもしろかったです。

沈没の原因となった、重心と船体のバランスの悪さですが、これは当時の設計士が、船の完成の約1年前に亡くなっていたこと(→管理していた人物が亡くなったため、引き継いだ人たちが各分野で連携をとるのが難しく、結果的にバランスの悪い船になってしまった)などが原因としてあげられています。

(他にも、「国王が色々と注文をつけたせいで沈没した」という話が非常に有名ですが、これはあまり根拠や証拠が無いみたいです)

私の記憶だと、「後から部分的に色々と変更していった結果、最終的に、当初計画されていたものと全体としてだいぶ違う構造の船になってしまい、それでバランスが崩れてしまった…」と聞いたような気がします。

ヴァーサ沈没の際、国王は戦争で国外にいて、沈没の知らせを聞いて責任者の処罰(おそらく死刑)を命じたそうです。

が、幸いなことに(?)設計士が1年前に亡くなっていたため、船が沈んだことをその設計士のせいにできたことや(本当は設計士のせいではないのですが)、国王自身が戦争から帰国することなくそのまま国外で亡くなったため、結果的に誰も処罰を受けることなく済んだそうです。

(参考:Wikipedia「ヴァーサ(戦列艦)」

ヴァーサが展示されているヴァーサ博物館は、スウェーデンでも最もよく知られる博物館の1つで、今も世界中からたくさんの観光客が訪れています。

引き上げた後の作業風景(言語無し、作業風景のみ)↓

1630年頃~、三十年戦争へ。グスタフ2世アドルフの戦死

ヴァーサの沈没はありましたが、スウェーデンのバルト帝国時代は続きます。

1618年頃からヨーロッパでは三十年戦争が始まりました。

これは17世紀最大の衝突と言われていて、宗教を政治をめぐって、ドイツで勃発したものです。

スウェーデンに至っては、1630年頃にこの戦争に参戦。多くの兵士がグスタフ2世アドルフについてドイツへ行き、亡くなりました。

(※兵士たちの多くは戦争それ自体よりも、戦地での「病気」(衛生環境が悪く、貧しい食事などしか与えられなかったことにも起因する)により亡くなった例が非常に多かったそうです。当時の兵士たちとその家族については、次回の記事で触れます)

グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍はプロテスタント軍側を勝利に導き、彼は「北欧の獅子」と呼ばれ、敵側から怖れられるようになります。

しかし、1632年、リュッツェンの戦いにおいて、プロテスタント軍側は勝利をおさめたものの、グスタフ2世アドルフは戦死。

彼の死によってスウェーデンの戦争が終わることは無く、以降も戦争の時代が続いていきます。

※このリュッツェンの戦いは、「スウェーデン史上最も有名な戦い」だと番組で紹介されていました。

番組では、戦いの場面(特に、霧が濃い中でグスタフ2世アドルフ軍側があやまって敵側に飛び出してしまい、戦死する場面)をもっとドラマチックに紹介していたのですが、私はちょっと時間が無いので省略。1文で終わらせて申し訳ありませんが、詳しく知りたい方はこちらをどうぞ→Wikipedia「リュッツェンの戦い(1632年)」

※ヨーテボリで撮った、グスタフ2世アドルフの銅像とヨーテボリ市庁舎の写真↓彼がヨーテボリの町を創設したそうです。


今回はここまで。

この辺りの内容は、世界史の知識ほぼゼロの私には非常にまとめにくいものだったのですが、自分なりになんとかまとめてみました。間違ったことを書いていたらすみませんが…。

本当は、当時の人々の習俗の話題や徴兵についての話も盛り込まれていたのですが、途中に混ぜると時代の流れがわからなくなると思ったので、こちらの話題は次回まとめて書きたいと思います。

戦争にたくさん参戦したという事実は、大国としてのスウェーデンを築き上げることになった一方で、民衆にとってはつらく苦しい時代を象徴しているものでもありました。

伝統音楽の話題で…

ちなみに、グスタフ2世アドルフの名前は、伝統音楽でもたまに話題が出てくることがあって、たとえばこちらの記事↓に出てくる、「グスタフス・スコール(Gustavs skål/Gustafs skål)」(王室歌として有名な曲だが、その王室歌を伝統音楽バージョンにしたものがあり、ニッケルハルパだと後者が有名)という曲の話でも出てきます。

★グスタフ2世アドルフ及びグスタフ3世の話題が出てくる、伝統音楽奏者の記事→Olof Hellstedt(オーロフ・ヘルステッド)について【ウップランド地方のニッケルハルパ奏者】

★グスタフス・スコールの伝統音楽演奏バージョン(Anders Mattsonの解説と演奏)↓

ウップランド地方の伝統音楽界隈だと、よく知られている曲の1つかなと思います。

今回の内容が難しかった方は、とりあえず「グスタフ2世アドルフの時代にスウェーデンが領地を拡大。彼は北欧の獅子と呼ばれ、バルト帝国時代(大国時代)と呼ばれる時代が始まった」ということだけ覚えておけば大丈夫かと思います。

では、また次回は明後日くらいを目途に更新したいと思います♪