昨日書いた、「弓の先っぽを意識する」(ガン見するのではなく”意識”する)というのはやはり私にはとても効果的なようで、今日もそのやり方で弾き始めたらすごく弾きやすかったです。
理由を考えたのですが、まず第一に「首が伸びる」というのがやはり大きいと思いました。弓の先を視界の端にとらえながら弾くと、「わー弓が迫ってくる!けどぶつからないんだよなあ、これが」みたいな感じの気持ちになります。つまり、「弓が自分にぶつかりそうなくらい大きい動きをしても実際はぶつからない」という感触を得ることができます(首が伸びて、前のスペースが空いているから)。一方、弓元や手元に集中してしまうと、首が前に出たり背骨が曲がったりしてスペースが狭くなり、弓が自分に当たります。当たらなくても、「当たるかも」って思ってしまって心配で弓を大きく動かせなかったりします。
弓を大きく動かすのはとても大事です。弓を無駄使いするのとは違うのですが。
また、首が伸びると私は左肩も楽になります。鍵盤ばかり見ていると、自分と鍵盤を近づけようとして首が前に出て、しかも指を鍵盤に届かせようと左肩が下がり、でもそれだと楽器が遠くなるから左腕は楽器を持ち上げようとする、という謎な姿勢になります。これは人によって違うと思いますが、私の場合はこうなります。
首が伸びるとそれが自然となくなることに気が付きました。
あともう一つ思ったのが、「弓の先っぽを見ていると自分の弓の軌道がわかりやすい」ということです。
昨日も書いた通り、弓の先端の軌道は『ここで終わり』とか『ここで引き返す』みたいな急な「点」で引き返す動きよりも、とにかくカーブを描いた線の動きになっています。ニッケルハルパは特にそうです。なぜなら、弓が駒と平行に動くのではなく、肘を使って円を描くように動かすので(駒と平行であることよりも、「弦の一点を通り続ける」ことが大事なので)、例え同じ弦の上をまっすぐに弾いても自分から見ると弓が自分に近づいたり自分から遠ざかったり、というカーブの動きになるからです。(もちろん自分以外の角度から見たら、弓の動きがまっすぐに見える角度もあります)
移弦の時も、この自分から遠ざかったり近づいたりのカーブを止めて移弦してしまうと、それは弓の上下の動きを止めていることになるので、うまくいきません。移弦に気を取られて弓の上下の動きが無くなってしまうと、当たり前ですが音が出ません。(弦の上で弓が止まっている状態になるので)
弓の先端を見ていると自分の弓の動きに意識的になるので、自然と弓が良い感じに動くのかなと思います。『弓の不自然な一時停止』感がなくなり、全ての動きが繋がります。
反対に言うと、うまくいっていない時は弓がどこかで急に「うっ」と不自然に止まっている(「ぐっ」と息が詰まっているような)可能性があるかも、ということです。私は思うのですが、スウェーデン民族音楽の奏者は音を出していない時でも(はねたり、ためたりしている時でも)弓を「うっ」と詰まったように一時停止的に止めたりはしていないのではないかと感じるんです。止まっているように見える時も、何かのフレーズを弾ききった後の余韻であったり、そこだけあえてスピードを落としていることによって止まっているように見えたり、もしくはスケボーやスノボーの大会とかで選手が一番高くあがっている所の浮遊感と同じような感じで、動きの臨界点だから止まっているように見えるけど連続している、みたいな感じな気がするんです(特にフィドルの人はこの動きをよくやっている気がします)。スケボーの人達も別にあれは宙で止まっているわけではないですもんね。
この「不自然に息を詰めた一時停止感」は、私が言うのもおこがましいのですが、スウェーデン人以外の人が弾いている時に特によく目にするのがおもしろいなと思います(音楽のジャンルによるのかもしれないし、よらないのかもしれないし、です)。私もよくやってしまっていて「なんか違う。『なんか違う』動きを今、私、自分でしたな。自分やってるな」といつも思います(この『なんか違う』感はだいたい合っているので、この感覚を大切にした方が良いなと思います)。
これをもっと具体的に表現すると、おそらく「うっ」と詰めてしまっている時というのは、身体に力をぐっと入れてしまっているのだと思うんです。上手い奏者はそれが無く、連続した動きの中で自然に止まっています(正確には、「止まりかけて」います)。そこが大きな違いかなと感じています。
今日はさらに別の課題も浮かんだので、明日はその改善に取り組みたいと思います。
私の今日の動画は番外編で、以前投稿した曲「Polska efter Gällsbo-Jonas」です!これももっと良くしたいのです。
あと紹介動画はVäsenの「Väsenvals」です!
今日もお読みいただき、ありがとうございました!