久々の更新ですが、スウェーデンの歴史番組を見てメモしたことを書いているシリーズです。
前回・前々回で、スウェーデンのバルト帝国時代の始まり頃まで(~17世紀初め頃)を見てきました。
具体的には、「北方の獅子」と呼ばれたグスタフ2世アドルフが、1632年に三十年戦争で亡くなるくらいまで、そして17世紀の結婚や徴兵について、でした。
今回はグスタフ2世アドルフが亡くなって以降(1632年~)のことを見ていきます。
前回までで戦争の話がかなりあり、今回は植民地や奴隷の話も出てきます。そういうわけもあって記事のモチベーションが下がっていましたが、ちょっと踏ん張って、続きを書いていきたいと思います。
(番組と記事の都合上、かなり端折っている部分が出てきてしまうのと、何か間違ったことを書いていたらすみません。興味のある方は、ぜひご自身で調べてみてくださいね)
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)、⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、スウェーデンの歴史⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
1633年頃~、王女クリスティーナと宰相アクセル・オクセンシェルナ
グスタフ2世アドルフが亡くなった後は、王女のクリスティーナが王位を継ぎましたが、当時彼女はまだまだ6歳でした。
そのため、宰相であったアクセル・オクセンシェルナ(Axel Oxentierna)が摂政団の中心となり、クリスティーナと、彼女のいとこのカール・グスタフ(※のちのカール10世)に国の治め方を教えながら国政を支えました。
都市の整備と資源の活用―銅、鉄
17世紀を通してスウェーデンは戦争を続けたため、国は膨大な軍事予算を必要としており、オクセンシェルナは国土に存在するありとあらゆる資源を有効活用しようとしました。
彼は特にスウェーデン北部の交易に目をつけ、北部に「新しい都市」を築き、税収(国の税)の増加をはかりました。
(→この頃、スウェーデン北部に今も存在しているような都市が、いくつも整備されました)
また、彼はスウェーデン国内に存在する「資源」を可能な限り有効活用しようとしました。
その1つが、銅の生産、ファールン(Falun)の大銅山でした。
ファールンの銅山は、17世紀のスウェーデンの最大の労働場所であり、非常に大きな財源でした。
(当時、世界の銅生産の約60%をファールンの鉱山が占めていたとも言われているそうです)
★参考:ファールンはこんな感じです↓ファールンの銅山について紹介動画
★参考:ファールンに行った時に撮った写真など:ダーラナ地方Falunの写真紹介その3銅山地域の展示
また、鉄の生産も、当時のスウェーデンにとって非常に重要なものでした。
この頃、南ベルギーからワロン人たち(Valloner)がやってきて、スウェーデンの鉄の生産に携わりました。
※ワロン人と鉄については、番組ではさらっと触れて終わりでしたが、ウップランド地方の話でもこの話題はとてもよく出てきます。
ワロン人たちの鉄生産の技術が、当時の(ウップランド地方をはじめとする)スウェーデン鉄の生産において大きく貢献したと言われています。
また、ウップランド地方にはワロン人のルーツを持つ演奏家もいます。
参考:Hasse Gille(ハッセ・イッレ)について(ニッケルハルパ奏者)、Wilhelm Gelotte(ヴィルヘルム・ファロット)について(フィドル奏者)
また、今ではこちらの説は否定されているみたいですが、ニッケルハルパの起源について、「ニッケルハルパをもたらしたのは、ワロン人なのではないか」という仮説がとられていたこともあります。
それくらい、彼らの移住が文化的に影響を与えた、と見られることが多いのかなと思っています。
スウェーデンの海外植民地、奴隷貿易(1650~1663年)
スウェーデンにやってきたワロン人として、また、いち実業家として非常に有名だったのが、ルイ・ドゥ・ヤール(Louis De Geer, 1587-1652)でした。
彼は、ワロン方式の鍛冶(製鉄)の導入など、様々な事業でスウェーデンに影響を与えた人物でしたが、彼が影響を与えたものの1つがスウェーデンの「海外植民地」の計画でした。
当時、スウェーデンは国家の財政を潤す手段として、海外に植民地を作ろうとしていました。
最初に計画された場所は北米でしたが、ルイ・ドゥ・ヤールはアフリカへ目をつけ、この計画がのちに「金・砂糖・奴隷」の貿易路となりました。
この交易が経済的にも重要な役割を果たし、王女クリスティーナによっても認められる事業(スウェーデンのアフリカ会社)となります。
今のガーナにある、「スウェーデン領黄金海岸」と呼ばれる場所も、スウェーデンの交易のための植民地でした。
ここは、最初は金や布、象牙を売るための交易地として使われていたそうですが、後に「奴隷の収容所」として使われるようになります。
スウェーデン国内では、既に奴隷制度や奴隷貿易は長い間禁止されていましたが、この法律は国外では適用されなかったため、奴隷貿易が行われていたそうです。
その後、スウェーデンは戦争に負け、(植民地を手に入れた)13年後にはこの植民地を失いました(1650-1663年)。
しかし、スウェーデンを含むヨーロッパの国々が17世紀に作ってしまったこういった交易のネットワークは、アフリカの地域経済や社会システムを破壊しました。
(※番組では、収容所の環境がいかに劣悪なものだったのか、なども語られていました)
1650年、クリスティーナの戴冠式、戦争の終わり
1650年、24歳となった女王クリスティーナの戴冠式が行われました。
それまで、王の戴冠式はウプサラで行われるのが伝統でしたが、この時、彼女が座った玉座はウプサラではなくストックホルムの銀の玉座でした。
これは、海外からの要人をより招きやすいストックホルムで戴冠式を行うことで、彼らが帰国した後に、彼女の話題をしてもらえるようにとの意図があったようです。
戦争終結、スウェーデン領の拡大
クリスティーナが戴冠する少し前、スウェーデン対デンマーク=ノルウェー連合の戦争はブレムセブルー条約(1645年)によって終わりを迎え、30年戦争も終結(1648年)。
これにより、それまでデンマーク=ノルウェーの領地であった、「イェムトランド地方(Jämtland)・ヘリエダーレン地方(Härjedalen)・ゴットランド島(Gotland)・ハランド地方(Halland)、及びサーレマー島(Ösel、現在のエストニアの島)」がスウェーデンの領地となり、30年戦争の後には、ドイツのいくつかの地域もスウェーデン領になりました。
文化面での発展
クリスティーナの父、グスタフ2世アドルフの時代にも文化的な発展がありましたが、女王クリスティーナの時代は、より文化面においてスウェーデンが花開いた時代だったそうです。
彼女自身もバレエのダンサーとして訓練を受けており、また、当時は「公の発表」としてバレエの演目が使われることもあったため(※人々を呼んでバレエを見せ、王の意図を伝える)、たとえば彼女自身も、「結婚しない」という意思をバレエの演目を通して周囲に表明しました。
※クリスティーナについて私は全然詳しくないので、付け焼刃な知識で書きますが、彼女は領地拡大や、戦争のための財政への関心は薄く、代わりに平和や融和、理想をうたう人物だったようです。
そのために「譲歩した条件による講和」なども行われ、戦争が終わったみたいですね。
譲歩した条件で戦争を終わらせることに対して、反発もあったそうですが、そういった経緯があったから、社会では文化的な成熟があったのかな?と私は思っています。平和でないと文化の発展はないと思うので…。
1654年、クリスティーナの退位。カール10世が王へ。さらなる領地の拡大。
しかし、戴冠式からわずか4年後、クリスティーナは自ら退位します。
当時、王位を継ぐことはまさに「神から与えられた定め/神の意志を全うすること」であったため、自ら退位するというクリスティーナの行動は、神の意志に背くものとみなされ、大きなスキャンダルとなりました。
また、彼女はカトリックへと改宗したため、それもまた人々の反発を生みました。
(クリスティーナのこういった行動を罪だと考える人も多かったそうです)
一方、クリスティーナの退位後、王となったのが彼女のいとこのカール10世(カール10世グスタフ)でした。
彼は幼い頃からクリスティーナとともに、宰相アクセル・オクセンシェルナから政治について教わっていた人物でしたが、クリスティーナの退位後まもなく(1654年)、アクセル・オクセンシェルナが亡くなります。
オクセンシェルナの政治方針は「スウェーデンを適度な大きさに広げつつ、周囲の大国を刺激しすぎないこと」でしたが、彼の死後、カール10世は当時の国境にまだまだ満足せず、ポーランド側へと領地の拡大を目指します。
さらに、リスクのある「氷上侵攻」を行い、デンマークとの戦争に勝利。
(※氷上侵攻…スウェーデン側からデンマークへ正面突破するのではなく、あえて南側の氷上を伝い、背後からデンマーク軍へと迫った侵攻。氷が割れる可能性があったため、非常にリスクの高い方法だったが、成功しスウェーデン軍が勝利した)
これにより、ロスキレ条約(Freden i Roskilde、1658年)が結ばれ、スウェーデンはさらに「スコーネ地方(Skåne)、ブレーキンゲ地方(Blekinge)、ボーヒュースレーン地方(Bohuslän)」と、現在はノルウェーの「トロンハイム(Trondheim)」、現在はデンマークの「ボーンホルム島(Bornholm)」を手に入れ、バルト海の支配をより強固にしました。
今回はここまでにしたいと思います。
この辺の歴史は色々と入り組んでいる感じがして、まとめるのがとても難しいのですが、概要だけ追いながら、ほふく前進のように少しずつ前に進んでいきたいと思います。番組でもだいぶ端折っているみたいですが。
次回以降は魔女裁判(魔女狩り)の話も出てくるみたいです。
ただ単に「魔女」と聞くと少しわくわくしますが、「魔女裁判(魔女狩り)」と聞くと憂鬱な気持ちになりますね。でも避けては通れません。
では、また次回。
