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「楽しそうに弾かなければいけない」わけがない。

/ ニッケルハルパ奏者

昨日「愛想笑いをしなくても良いと自分に許可したい」と書いたので、昨日も今日も動画を真顔で撮りました。

普段弾いている時は真顔な時もあればそうでない時もあるのですが、動画で撮ると後で見返した時に「笑顔の方が良いのかなー…」と感じることが多く、なるべく笑顔で撮るようにしていたんです。

でも作り笑顔は疲れるので(全部が全部作り笑顔ではありませんが)、普段から「人前で弾く時にも笑顔でなくても良い(笑顔でももちろん良い)」と思えるように、動画でも少しずつ慣らしていきたいなと思いました。

これは別に笑顔になってはいけないわけではなく、私はあまりにも「笑顔でなければいけない」信仰が強すぎたのでとりあえずその思い込みを弱めようとしています。

なぜそのような思い込みを抱いているかにも理由があり、私の周りの日本(東京)のニッケルハルパを弾いている人の一部の間では、なんとはなしに「楽しそうに弾かなければいけない」という不文律を感じてきたからです。不文律というか、実際言葉でよく聞ききました。

「もっと楽しそうに弾こうよ」とか、「もっと楽しそうに弾いて」とかです。私は言われたことはありませんが、誰かが誰かに言っているのはよく聞きました。それは余計なお世話だな~、とはたから聞いていて思いました。

楽しそうに弾いているかどうかと、実際本人が楽しく弾いているのかどうかは、イコールではありません。本人が楽しいかどうかなんて、本人にしかわかりません。「楽しそうに」の基準って何なのでしょう?

そもそも何をするにしても、楽しさ=笑顔、ではありませんし。笑顔でなくても何かに夢中になって楽しんでいる人達、たくさんいますよね。

弾いている間「私は楽しいですよ~」というアピールをしなければいけないなら、そこにはもう「自由」はありません。

一番大切なのは自分自身が自由に楽しんでいることであり、他人の目は関係ありません。それが真顔でも、怒った顔でも良いじゃないですか。

それを突き詰めていけば結局は「自分がとことん楽しむ」ことがとても大切で、その感覚を磨き続けていくと他の人の言うことは全く気にならなくなっていくのです。つまり、余計なことを言ってくる人が相変わらず余計なことを言い続けていても、全然問題にならなくなるのです。それは最高だと思います。

作ろう・飾ろうとする気持ちの裏側には「そうしなければ(素の自分では)愛されない」という不安と怖れがあるそうです。

素の自分でオッケ―だよ、むしろその方が良いよ、飾った笑顔なんて実はばれてるしそんな作り笑顔よりも真顔で真剣に弾いている姿の方が見ていてほっとするなー、そういう人の方が信頼できるんだよな…。というのが私の正直な気持ちです。

意気込んでいない人が好きです。

164曲目は「Polska efter Kalle Styfberg」です!

今日もお読みいただきありがとうございました!