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スウェーデンの歴史⑬グスタフ・ヴァーサの死後(16世紀終わり)

/ ニッケルハルパ奏者

スウェーデンの歴史番組を見て、メモしたことを書いているシリーズです。3月に入ってから全然更新できていなかったのですが、久々に更新したいと思います。

前回は「スウェーデン建国の父」と呼ばれるグスタフ・ヴァーサが、当時の王(=デンマーク王)に反旗をひるがえし国王となった経緯と、彼の時代(~1560年頃)について見てきました。聖書がスウェーデン語に訳されたり、スウェーデンが「国として」まとめられるようになってきた時代でしたね。

今回はグスタフ・ヴァーサの死後、16世紀終わり頃からです。

この頃からスウェーデンは大国(帝国)としての一歩を踏み出し、17世紀に入って間もなく「大国時代(Stormastkstiden)」を迎えます。今回はそこまでいかないかもしれませんが…。早速見ていきましょう。

※今回も、番組を見たり調べたりして内容をまとめていますが、何か専門的なことなど、間違えていましたらすみません!

1560年グスタフ・ヴァーサの死(ヴァーサ王朝は第二代国王エリク14世へ)

グスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)の死後、長男のエリック(Erik、エリク14世)が王位を継ぎました。

当時、国は安定していました。

今のスウェーデン南部スコーネ地方のあたりは、当時はまだデンマークに属していましたが、フィンランドの大半はスウェーデン領地でした。

スウェーデン各地の都市はそれぞれ小規模に成立しており、どれもまだ田舎のような感じでした。

エリクはスウェーデンを「ヨーロッパの他の国々並ぶ国」にするため、様々なことを行いました。

まずは歴史の記述のされ方に着目。彼は歴史書に登場する過去の王たちの治世番号からインスピレーションを受け、自らに「14世」という治世番号をつけました。

(エリクという名前の国王はそれまでにも数名存在していましたが、13人もいなかったそうです。つまり、史実と治世番号がかみ合っていないことになります。実際の歴史よりも大きい治世番号を示すことで、スウェーデン国王の「歴史の長さ」を(他のヨーロッパ諸国に対して)示そうとしたと言われます)

また、戴冠式においても、父グスタフの王冠ではなく、エリク14世は自らの王冠を作らせました。この王冠は「Sluten krona(閉じた王冠)」と呼ばれ、王冠の上の部分の細工が中央で交差する(=閉じている)ものでした。これは、スウェーデンだけではなく当時の北欧全体でも新しいもの(画期的なデザイン)でした。

他にも彼は王癪(おうしゃく=杖)や宝珠、国の鍵(鍵の形の宝飾品)などを作らせ、これらの王家の宝物(レガリア)は今日に至るまで使われています。

★エリク14世の王冠や宝物など↓

(この動画↑の中で説明されていることなのですが、グスタフ・ヴァーサ以前の王は世襲制ではなく、また、カトリックの国王でした。そのため、エリク14世はスウェーデン初の「世襲による王」かつ「プロテスタントの王」。スウェーデンの過去の国王よりも、他の「西欧諸国の国王」のやり方を大いに参考にして取り入れていました。こういった宝物作りもその一環だったそうです)

スウェーデンはまだ当時大国ではありませんでしたが、これらの宝物を作ることにより、「ヨーロッパの他の国々に匹敵しうる国であること」を示そうとしていました。

さらに、1561年、エリク14世が国王になって1年目のこと、彼はレーバル(Reval。今日のエストニアの首都タリンTallinの昔の呼び名)に軍隊を送り、レーバルはスウェーデン領になりました。これは、ロシアからの脅威に対抗するためにレーバル側がスウェーデンに助けを求めてきた経緯があり、スウェーデン領となる際、血が流れることは無かったそうです。エリク14世はレーバルを守ることを受け入れました。

スウェーデンが大国となるための、最初の一歩が踏み出されました。

エリク14世の廃位

しかし、彼の治世は安泰ではありませんでした。

エリクの弟たち、ヨハンやカールとの権力争いが起きたのです。

エリクが王となって7年後の1567~1568年頃、ヨハンとカールは反乱を起こし、エリクは投獄され、投獄先で亡くなりました。

※エリクの投獄先は頻繁に変更されたそうですが、最後の投獄先がオルビヒュス城という所(刑務所)で、急死だったそうです。毒殺の噂もあるとか。

オルビヒュス(Örbyhus)は私のニッケルハルパの留学先の近くで、学校の授業の一環でこのオルビヒュス城のガイドツアーにも参加したことがあったので、「へえ~」と思いました。

当時の私は、歴史の知識が皆無だったこともあり、ガイドの男性のスウェーデン語を残念ながらほとんど理解していませんでしたが…。

オルビュフス城↓

こちらの動画の解説によると、「もともとここには「刑務所」が作られており、エリク14世もここで亡くなったのだけれど、今私たちが見ているオルビヒュス城の建物というのは、それとは別物で、17世紀になってから新しい領主によってお城として建てられたもの」なんだそうです。

ちなみに、別の建物としてオランジェリー(温室)も同じ敷地内に建てられており、こちらでは今も結婚式やコンサートなどが開かれているそうです。

1568年~エリク14世の廃位以降。国王ヨハン3世と公爵カール

ヨハン3世…スウェーデン領地の拡大

エリク14世の廃位後、ヨハンが王となり、ヨハン3世となります。

彼はポーランドの王女カタジナ・ヤギェロンカ(ポーランド表記:Katarzyna Jagiellonka)と結婚し、彼女をスウェーデン王妃として迎えました。

ヨハンは自身の在位中にイングリア(Ingermanland。現在のロシアのサンクトペテルブルクを中心とした地域)までも統治し、スウェーデンは国土をさらに拡大しました。

(※この時点でのスウェーデンの国土は、「(現在のスウェーデンの)中部」「フィンランドの大半」「レーバル(エストニアのタリンの辺り)」・「イングリア(ロシアの一部)」辺りだそうです。バルト海をまたいでいます)

公爵カール…スウェーデン国内の強化

同時に、ヨハンとともにエリクを追いやった公爵カール(Hertig Karl)はスウェーデン国内の強化をはかります。

彼には、グスタフ・ヴァーサ(父)より与えられた、公爵としての領地(自分の管轄の地域)がありました。(セーデルマンランド、ネルケ、ヴェルムランドに至るまで)

その領地内で彼は自由に動くことができたため、スウェーデン国内にさらに小国を作るかのごとく、領地内を整えていきました。

「税収が国の基本」と考えたカールは、まずは自身の領地の「人口増加(人の流入)」を目指します。

Skogsfinnar(スコーグス・フィンナル)

その際、新しく土地にやってきた人々の一部は、フィンランドからの人々でした。

当時のフィンランドは農業をするのに厳しい土地環境だったそうで、スウェーデンに来ることで、より豊かな農作物の可能性を見出す人たちがいました。

彼らは「Skogsfinnar(スコーグス・フィンナル=森のフィンランド人)」と呼ばれました。フィンランド東部からやってきた人が多く、「焼畑農業」のエキスパートでした。

焼畑(やきはた)は、樹々を焼き、焼いた後の灰(=栄養がある)を肥料として農業を行う方法です。木を切り倒して火をつけて燃やした後、まだあたたかい灰の中に「焼畑ライ麦」(Svedjeråg。灰の混じった土壌での栽培に適しているライ麦)を植えるのです。

実がなるまでには数年かかったそうですが、収穫の時期には豊かに実りました。

また、このライ麦は通常のライ麦よりも栄養価が高かったそうです。焼畑ライ麦で作られたお粥(オートミール)は「motti(モッティ)」と呼ばれ、今日まで、Skogsfinnarの食文化として残っているそうです。

焼畑農業を行うには広大な森が必要だったので、彼らは未開拓の土地を開拓し、住んでいました。

こういった人々は17世紀半ば頃まで、たびたびフィンランドから訪れました。彼らが住んでいた土地はのちに「Finnmarker(フィンランド人の土地)」や「Finnskogar(フィンランド人の森)」と呼ばれ、スウェーデンの森の多くに、地名としてその名を残しています。

※「Finnskog(フィンスコーグ)」は、伝統音楽の曲やフォークダンスの名前にもなっています。また、伝統音楽の奏者について調べていると、Skogsfinnarを祖先に持つ演奏家や、このFinskogの地域に住む演奏家の話題が出てきます。→Pekkos Per(ペッコス・ペール)とPekkos Gustaf(ペッコス・グスタフ)について【ダーラナ地方のフィドル奏者たち】Lomjansguten(ロムヤンスギューテン)について【ヴェルムランド地方のフィドル奏者】


中途半端ですが、今回はここまでにしたいと思います。

次回はこのカールの続きと、彼以降の国王について見ていきます。

実はこの16世紀終わり頃以降の歴史は、かなり戦争が多かったようで。番組を見ていてあまり楽しい内容では無かったりもしたのですが、この辺の流れがわかると、ちょっと歴史の話が出てきた時に「ああ、あの国王ね」となってわかる範囲が増える、重要な部分かなと思います。

次回は明後日くらいの更新を目指して頑張ります。