スウェーデンの歴史の記事です。
前回の記事では大北方戦争が終わった後、スウェーデンが「自由の時代(Frihetstiden)」(1719年頃~)へ突入。絶対王政から身分議会制となり、身分間の衝突があったり、新しい文化や学問が発達していく様子を見てきました。
今回はその続きです。18世紀半ば~18世紀後半にかけて、出版の自由と党の対立、ベルマンの登場、そしてグスタフ3世の治世が始まる頃(=自由の時代の終焉)までを見て行きます。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)
・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)、⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)
・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
「出版の自由」をめぐって
「自由の時代(Frihetstiden)」は社会に様々な変化や学問の発展をもたらしましたが、自由に考え、書くことにはまだ大きなリスクを伴う時代でした。
そんな中、変化が起きます。
①ペーテル・フォルスコール(Peter Forsskål, 1732-1763)
リンネの弟子であり学者のペーテル・フォルスコールの書いた文章が、スウェーデンにおける「言論の自由」に大きな影響をもたらしました。
1759年、彼は、人々の権利や平等、教育の向上などについて書いた小冊子『市民的自由についての考察(Tankar om borgerliga friheten)』を発表。
その中で、彼は「出版の自由」の必要性についても触れました。
国は彼の文章を危険だと捉え彼を呼び出し(尋問し)ましたが、最終的には「出版禁止等の措置をとると、かえってこの文章に対するさらなる好奇心や反響を生むかもしれない」と考え、この小冊子(の所持や閲覧)に関して、非常に高い「罰金」を設けることで対処しました。
②1766年、「出版および著作の自由に関する恩赦令」(Tryckhetsfrihetsförordningen)が成文化
しかし、(高い罰金にも関わらず)この文章がきっかけとなり、スウェーデンでは、1766年に「出版および著作の自由に関する恩赦令」(Tryckhetsfrihetsförordningen)が出されました。
出版の自由を保護する法律が成文化されたのは、世界で初めてでした。
(※ちなみに、ペーテル・フォルスコール自身は1763年に亡くなっているようなので、法律ができたのは彼が亡くなった後になります)
この法律ができた背景を、もう少し詳しく見てみましょう。
③法律の背景―ハッタナ党とメッサナ党の対立
この頃、ある2つの党の間での権力争いが盛んになっていました。
ハッタナ党(Hattarna)とメッソナ党(Mössorna)です。
《ハッタナ党とメッソナ党の党名と党の成立背景について》
番組では特に説明は無かったのですが、この2つの党について少し書いてみます。
2党はどちらも、帽子の種類が党名になっています。
ハット(複:ハッタル、ハッタナ)は、つばのあるような固めの帽子で、ここでは「三角帽(三つ折り帽子)」を指しているそうです。
また、メッサ(複:メッソル、メッソナ)は、今で言うニット帽のような「柔らかめの(つばの無い)帽子」を指しています。
1718年にカール12世がノルウェー遠征中に亡くなった後、宰相アルヴィド・ホルンはスウェーデンの復興に努め、(1721年に大北方戦争が終わってから)約20年間、戦争の無い平和な時代を維持しました。
しかしそれが、当時新たに台頭してきた若い指導者たち(=若い貴族たち)より、「スウェーデンの栄光を犠牲にし、平和に安住して惰眠を貪る者である」として「ナットメッソル党 (Nattmössor=ナイトキャップの党) 」と揶揄されてしまいます。
ナットメッソル党ではあまりに侮辱的であることから、のちに「柔らかい帽子」を意味するメッソナをあてて「メッソナ党」と呼ばれるように。
一方、揶揄した側の野心的な貴族たちは、自らを「栄光ある繁栄を追求する志士」であるとして、士官らが着用する「三角帽」に力強さを仮託して、ハッタナ党と名乗りました。
1738年、宰相ホルンは「親ロシア的である」(※ロシアは敵国)とされ失脚。メッソナ党は力を失い、ハッタナ党が台頭し、ロシアとの戦争も行われました(1741~1743年)。この時の戦争が、前回の記事でダーラナの農民たちが「戦争中止」を訴えかけた戦争になります。
(つまり、与党がメッソナ党→ハッタナ党へ移り変わっていきました)
※ここの記述はWikipedia「自由の時代」を参考にしました。
1760年代の終わり頃には、この2党の議会での支持基盤の違いがより顕著になりました。
ハッタナ党は「貴族」のための党。
メッソナ党は「聖職者・ブルジョワジー・農民(→つまり貴族以外の3身分)」のための党となっていました。
それまで、長期間にわたり権力を持っていたのはハッタナ党(貴族の党)でした。彼らは自分達にとって都合の良い政治をもくろみ、汚職も増えていきました。
そんな中、メッソナ党が与党となった際に迅速に行われたのが、ハッタナ党の権力の独占を止めるための「改革」です。
そしてその改革の1つが、1766年の「出版および著作の自由に関する恩赦令」でした。
既に町中では政治的な議論が活発に行われていましたが、この「出版および著作の自由に関する恩赦令」により、より深く踏み込んだ議論がなされ、新聞・本・パンフレット類がたくさん出版されました。
都市部の壁(掲示板)にも、現在の政治(=貴族政治)に対する批判的な文章を、罰則無しに掲げることができるようになりました。
もはや、貴族たちの独占的な政治や特権に対する批判の声は、日に日に高まっていきました。
王権の復活―自由の時代の終焉
貴族たちはこういった批判の声に対処するため、以前一度制限した「王の権力」を再び強化し、王に自分たちを守ってもらおうとしました。
当時の国王はグスタフ3世。国王に就任したばかり(1771年~)の彼を、貴族たちは味方につけることにしました。
彼が国王となって間もなく、それまで「貴族以外の人々」のために行われてきた様々な改革(メッソナ党による改革)の多くが取り消されました。
グスタフ3世が「貴族のための政治」を始めたのです。
実際のところは、貴族たちが彼を利用しようとしたのと同じように、グスタフ3世もまた当時の状況を利用し、国王の権力を取り戻そうとしたのだと考えられます。
1772年にはグスタフ3世はクーデターまで起こし、高位の貴族たちから、熱狂的な支持を受けました。
自由の時代の終焉です。
(※グスタフ3世はのちに方針を転換し、「反貴族」的な政治を行うようになりますが、それはまた次回書きます)
カール・ミカエル・ベルマン(Carl Michael Bellman)
少し話が変わりますが、この頃の人物で、今も知られる有名人を見てみましょう。
カール・ミカエル・ベルマン(Carl Michael Bellman、1740-1795)です。
彼は、「北方の獅子」と呼び怖れられたかつての国王「グスタフ2世」を称えた歌を「グスタフス・スコール(Gustafs skål)」として発表。
この歌がグスタフ3世に気に入られ、宮廷詩人として多くの作品を残しました。
(★グスタフ2世についてはこちらの記事へ→スウェーデンの歴史⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め))
・グスタフス・スコール↓
ベルマンは当時すでに有名人だったそうですが、国王に気に入られたことで、「誰もが知る人」になりました。
彼はもともと銀行に勤めていましたが、数字関係に弱かったため、退職。
借金をして生活していたので、有名になったことで経済的にも助けられたそうです。
当時のお酒事情
さらに、彼がよくお酒を飲んでいたことも、彼の借金に影響しているかもしれない、とも言われています。
…が、実はベルマンに限らず、当時の人々はお酒(蒸留酒)をたくさん飲んでいました。
たとえば朝食のコーヒーの代わりに、子どもの歯の痛み止めに、不眠症対策に。
当時の記録(日記や手紙)を見ると、今からは想像もつかないほどたくさんのお酒が飲まれていたことがわかります。
(※つまり、ベルマンだけが特別大酒飲みだったというわけではないそうです)
バー/居酒屋で過ごした時間から、歌のインスピレーションを得た
人々は、都会のバー/居酒屋(Krogen)などでお酒を飲むのを好んでいました。
ベルマンもこういった場所へ行き、歌や詩のインスピレーションを得ていたようです。
彼は代表作『フレードマンの書簡(書簡集)』において、「娼婦」や「アルコール中毒の人々」にスポットライトをあてました。
これは当時としては斬新でユニークなものでした。
また、彼の作品(歌、詩など)に出てくる登場人物のモチーフとなったのは、実在の人物(彼が知り合いだった人など)たちでした。
たとえば、Ulla Winblad(ウッラ・ヴィンブラード)という登場人物も、前回の記事に登場した(派手な服装をしていて警察につかまったりしていた)マイヤ・スティーナがモデルでした。
「ウッラ・ヴィンブラード」という名前は、マイヤ・スティーナ自身がストックホルムの夜の社交界でこのように名乗っていたことに由来しています。
(※さらに、今回はちょっと割愛しますが、番組では、マイヤ・スティーナ自身や当時の売春(売春をしないと生きていけないほど女性の経済状況が厳しかったこと)について、それに伴う女性側のリスク(望まない妊娠と、未婚の妊娠による罪)、また、ベルマンの作品によって「マイヤ・スティーナがウッラ・ヴィンブラードのモデルである」と世の中に知れ渡ってしまい、彼女が結婚した後にも噂がまわってしまって大変だったらしいこと、などが説明されていました)
★ベルマンについてはこちらの記事でも少しだけ書いています→「Gubben Noach(グッベン・ノア)」というスウェーデンの曲(ドリンキング・ソング)について
今回はここまで。次回は、グスタフ3世の治世から、彼が仮面舞踏会で暗殺される部分くらいまでを見ていきたいと思います。
意外と内容が詰まっていて、前回の記事からかなり時間がかかってしまいました。
本当は「グスタフ3世が仮面舞踏会で暗殺されるまで」を今回の記事に含めようかと思ったのですが、とてもそこまで到達しなかったので、次回にします。
ベルマンが「銀行勤めをしていたけれど、数字に弱くて退職した」というのは、現代人のようで親近感が湧きました(笑)
あとこの時代の人がお酒をたくさん飲んでいたとか、出版の自由に関する法律の成立事情とか、議会と王のそれぞれの思惑が交差する様子も興味深かったです。
グスタフ3世の治世下も、色々なことが起きているみたいですね。
私は歴史のだいたいの流れがわかれば充分なので、できる範囲で出来事を拾いつつ、適度に理解しつつという感じで、とりあえず19世紀に進めるように頑張ってみたいと思います。
