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スウェーデンの歴史⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)

/ ニッケルハルパ奏者

スウェーデンの歴史のシリーズです。今回は17世紀後半、魔女裁判(魔女狩り)についてと、カール11世の治世についてです。

全部丁寧書いていると終わらない…ということに気づいたので、ところどころ適度に省略しつつやっていきたいと思います!

民衆の厳しい生活→スケープゴートとしての魔女狩り

1658年、スウェーデンの領地は拡大し、王(カール10世←前の女王クリスティーナのいとこ)は称賛されました。

詩人はスウェーデンの民を「神に選ばれた人々」だと称し、科学のオーロフ・ルードベック(Olof Rudbeck、オラウス・ルードベックとも)はスウェーデンを「失われたアトランティス(伝説の古代帝国)になりうる国だ(アトランティスとはスウェーデンのことだったのだ)」と書きました。

しかし、民衆にとってはそんなことはなぐさめにもなりませんでした。

作物の実りは悪く、飢えがスウェーデンの人々を襲っていました。

そして、そういった状況で人々は「説明」や「スケープゴート」を求めたのです。

それが魔女裁判・魔女狩りへと繋がっていきました。

スウェーデンは他の国々よりも魔女狩りや魔女裁判の影響を受けていなかったと言われますが、それでも、影響はありました。

戦争から帰った兵士たち(=大陸で魔女狩り・魔法使い狩りの様子を見てきた人々)によって、魔女や魔法に関する言い伝え、およびその処刑についての話が大陸から持ち帰られ、

当時の民衆たちの苦しい生活と合わさり、それらの話が国中に広がっていきました。

人々は互いに、相手を「(邪悪な)魔法の使い手なのではないか」と噂するようになりました。

子どもの作り話を「証言」として

当時、こういった一連の出来事において手綱を握っていた人物の一人は司祭でした。

が、その他に、特にスウェーデンの魔女裁判において鍵を握っていたのが「子どもたちの証言」でした。

子どもたちは夜の間に魔女たちによって「ブロークッラ(Blåkulla)」へと一時的に連れ去られると信じられていて、子どもたちが、「夜の間に、魔女たちが悪魔のパーティーに参加し、悪魔の本に魔女が自身の血で名を刻み、悪魔たちのパーティーに参加し、悪魔との子どもを産むのを見た…」といったことを話し始めた際、人々はそれを魔女裁判の根拠/証拠だとみなすようになったのです。

(※ブロークッラ…悪魔がパーティーを開き、魔女たちが集まる場所。今ではイースターの時期に、「魔女たちが聖木曜日になるとこのブロークッラへ飛び、悪魔と会う」とされています。現在のイースターの言い伝えの方は、「かわいい言い伝え」と言う感じで、魔女狩りのような雰囲気はほとんどありません)

子どもたちのこういった話はもちろん、彼らの豊かな想像力と好奇心による作り話で、お互いの話に影響を受けて、次第に話が膨らんでいっただけでした。

また、社会全体も、最初はこういった噂話を、単に人々の苦しい状況を緩和するもの(※憂さ晴らしみたいな?)としてコントロールしながら受け入れていたそうですが、次第にエスカレートし、最悪の事態を引き起こしてしまったのです。

オンゲルマンランド地方、トーシュオーケルの魔女裁判

こういったプロセスは国中で起きていましたが、オンゲルマンランド地方(Ångermanland)のトーシュオーケル(Torsåker)で起きたものが最大・最悪だと言われているそうです。トーシュオーケルで何が起きたのかを見てみましょう。

(※トーシュオーケル(Torsåker)と聞いて、私は「イェストリークランド地方」のトーシュオーケルを思い浮かべたのですが、どうやらそれぞれ別の地域みたいです。魔女裁判の方は「オンゲルマンランド地方」の方です)

トーシューケルで起きたこと

魔女裁判が起きた際、トーシュオーケルの教会で司祭をしていたのはラウレンティヌス・ホルネウス(Laurentinus Hornaeus)という人物でした。

Wikipedia「Laurentinus Christophori Hornaeus」(英語)(スウェーデン語)

(実は彼の母も魔女として処刑されましたが、彼は母を助けようともしなかった人物だったそうです)

彼は魔女を見分ける証言者として、2人の少年を使っていました。

この2人は両親がおらず、「魔女を見分ける能力がある」とされていました。

「魔女は、額に『悪魔との交流』を示す印がある」と彼らは言っていたそうです。

2人の少年は日曜日の教会の入口に立ち、ミサに来る女性たちをチェックし、「あの人は魔女だ」と指摘することによって、報酬(お金)をもらうことができました。

彼らの証言により、多くの女性が裁判送りになりました。

女性たちは、ミサに行けば「魔女だ」と言われて死刑になる可能性があり、また、ミサに行かなくても「魔女だから行けないのだ」と言われるという、つらい状況に追い込まれました

2人の少年たちですが、彼らはもちろん本当に魔女がわかったわけではなかったので、ついうっかり、司祭の妻を「魔女だ」と証言してしまったこともあったそうです。その時は、司祭の妻が彼らをビンタしたため、慌てて「太陽の光がまぶしくて、見間違えました」と訂正した、ということです。

女性たちのその後、裁判の始まり

魔女だと言われた女性たちは聴取を受け、仲間がいるかどうかを厳しくチェックされました。

彼女たちの証言に関わらず、魔女だと言われる女性の数はその後もどんどん増えていきました。

1674年10月5日、裁判が始まりました。

裁判は長く続いたため、女性たちは聴取のため、ひと冬の間ずっと閉じ込められていたと言われます。

彼女たちを待っていたのは、聴取ののちの、死刑判決でした。

当時、この裁判で70人が起訴されました。男性(魔法使いとされた人)もわずかにいましたが、ほとんどが女性でした。

これはこの頃のこの地域に住む女性の、5人に1人にあたる人数でした。

また、トーシュオーケルだけではなく、当時は国中でこういったことが起き、多くの人が死刑判決を受けていました。

政府機関はこれを問題視し、特別な委員会を作り、刑を執行してしまう前に、裁判内容を精査して裁判官たちを制止(=刑を軽く)しようとしました。

実際、住民たちの多くはそれに賛成していた(「委員会が、刑を軽くするよう裁判官たちに働きかけるべきだ」と多くの人は考えていた)そうですが、なぜか委員会が実際に刑を軽くすることはなく(※理由はわからないそうです)、

数カ月間の聴取と待機の後、彼女たちの刑が執行されました。

トーシュオーケルでは、70人が一晩で処刑(斬首)され、身体は火炙りで燃やされました。

魔女裁判・魔女狩りの終焉

しかし、人々の間で徐々に、こういった裁判に対する反対や疑いの声があがり始めます。

そして、一人の少女が突然言いました。

「私たち子どもたちの話は、全部作り話です」と。

これが魔女裁判(魔女狩り)の終わりの合図になりました。

政府機関は一連の出来事を「集団ヒステリー」だったと説明。

司祭もまた「私たちが行ったことは間違いだった。すべて悪魔によってたぶらかされたのだ」と説明しました。

17世紀にスウェーデン中で起きたこれらの出来事は、のちに「グレート・ノイズ(det stora oväsendet)」と呼ばれました。

トーシュオーケルでは、その後長い間、司祭の住居(Prästgården…教会のすぐ近くに建てられている司祭用の住居)の近くを歩くことを人々が忌避し、あえて遠回りしていたそうです。

そして、トーシュオーケルで証言に利用された2人の少年はその後、息を引き取った状態で見つかりましたが、誰も彼らの死因を探ろうとする者はいなかった(犯人探しをしなかった)、と言われているそうです。

(※今回、番組では魔女狩りの背景を「社会のスケープゴート」といった感じで説明していましたが、背景としては、他にも色々な要素が考えられるそうです)

カール11世の治世

カール10世の跡を継いだのは、息子のカール11世でした。

カール11世が王位を継いだ時、彼がまだ若かったことや、おそらくディスレクシアだったことにより文字の読み書きが困難であったことから、学習等がなかなか進まず、周囲の彼に対する王としての評価はあまり良くないものでした。

また、国の財政もひっぱくしていました。

スウェーデンからスコーネ地方(およびブレーキンゲ地方・ハランド地方)の奪還をもくろんでいたデンマーク王クリスチャン5世は、これを良い機会だととらえ(※カール11世の評判の悪さから、スウェーデンが弱体化しているととらえ)、スコーネ地方に攻め入ります。

1675年、スコーネ戦争の始まりです。

スウェーデン軍は最初は苦戦しますが、じりじりと対抗し、1676年のルンドの戦いでデンマーク軍を退却へ追い込みます。

(※このルンドの戦い(Slaget vid Lund)は、北欧で最も陰惨な戦いだと言われ、両軍ともに多くの兵士が亡くなりました)

そして1679年には戦争が終わり、スウェーデンはスコーネ地方を死守しました。

(※この戦いの場面は番組ではもっと色々紹介されていましたが、今回は割愛します。すみません)

参考:Wikipedia「スコーネ戦争」

カール11世は軍や周囲からの信頼を取り戻し、その後の財政改革においても、貴族の土地を没収し国家財政へとあてます。

彼は、権力を王へと集中させ、絶対君主制を確立。「王は神に対してのみ責任を負う」とし、貴族たちの王への反発をおさえました。

職業兵士/軍の創設

カール11世は大国からスウェーデンを守るため、職業兵士(スウェーデン軍)の創設を行いました。

これにより、兵士(Soldat)は一つの職業(身分)となり、彼らと結婚する女性もまた兵士の妻という身分を得ました。

兵士の家(Soldattorp)と家族の生活について

兵士を集める(確保する)のは村の人々の役割でした。村人たちは兵士を志願する若者を呼び集め、彼らに報酬として家(torp)と耕作地を与えました。

これが「兵士の家(Soldattorp。ソルダート・トルプ)」です。

彼ら(兵士とその妻や子どもたち)は平和な時には家に住み、農民として生活する権利が与えられ、戦争が起きれば兵士は戦いへ駆り出されました。

戦争の際には、10人のうち生きて帰った兵士は8~9人ほど。人々はそのことを知っており、戦争に行く=死、ということを理解していました。

多くの兵士は戦争それ自体よりも、遠征先での感染症などの「病気」にかかり亡くなりました。

兵士(夫)が戦争に行っている間は、妻が、家や子どもたちの面倒をすべて見ており、兵士(夫)が亡くなると、妻は子どもを連れて1年以内に家を出なければいけませんでした。この場合、新たに他の兵士と結婚することができれば、その兵士の家に移り住むことができました。

(※当時の結婚に対する認識は現在のものとは異なり、より「実用的な条件」でもって結婚が行われていたため、夫を亡くした妻が別の兵士と結婚するということも一般的だったそうです。特に子どもが何人もいる女性の場合、家が無い状態で子どもを養いながら生きていくことは不可能に近かったのです)

この「兵士の家(ソルダート・トルプ)」ですが、兵士自身の階級が上であるほど、より広い家・広い土地が与えられる仕組みとなっていたそうです。

また、兵士になると彼らには特別な名字が与えられました。たとえば、Lans(ランス)、Skytt(フイット)、Rask(ラスク)など。これは「兵士の名字(Soldatnamn。ソルダート・ナムン)」と呼ばれます。

(※通常は○○sonといった感じで、「親の名前+son(=~の息子)」という名字がつけられていましたが、これだと同じ名字の人物ばかりになってしまうので、区別の意味も兼ねて特別な名字が与えられた、と聞いたこととがあります)

※兵士の家(ソルダート・トルプ)や名字(ソルダート・ナムン)については、以前も演奏家の記事で紹介しているので、もしよければご覧ください。

From-Olle(フロム・オッレ)について(最後の余談の部分でSoldattorpについて書いています)

Sven Donat(スヴェン・ドナート)について(兵士だった演奏家なので、SoldattorpやSoldatnamnについて軽く書いています)

また、記事ではまだ書いていないようですが、イェストリークランド地方の昔の演奏家で、よくVäsen(ヴェーセン)のお二人がここ数年のアルバムで演奏しているPer Persson Menlös(通称Melliken)のMenlös(メンルース)という名字もSoldatnamnだと聞きました。

こうしてカール11世が集めた兵士たちは、のちに「カロリーネル部隊(Karoliner)」と呼ばれるようになります。

彼らは青(黄色い裏地)のジャケットを軍の制服とし、約55000の制服が国中で作られました。

スウェーデンは効率的な軍備を持つ国となりました。

※ここで余談ですが、ニッケルハルパを弾いている方でしたら、もしかしたら「カロリーネル」と聞いて、思い浮かぶ曲があるかもしれません。

エリック・サールストルム作曲の「カロリーネル・マルシェン(Karolinermarschen)」です。

この曲は、カロリーネル部隊の兵士たちが18世紀にノルウェーで敗戦し、王の遺体を持ち帰る際、雪の厳しい冬山(ノルウェー・スウェーデン間に連なる山)を越えることができず、彼らの多くが亡くなったことに由来しています。曲は、彼らの追悼式典を20世紀に行った際に、エリックが依頼を受けて作った曲だそうです。

このカロリーネル部隊の敗戦の話が出るのはもしかしたら次の記事になってしまうかと思いますが、今回と次回の記事を読むと、カロリーネルマルシェンの曲の背景がよりわかるかもしれません。

★カロリーネルマルシェン↓

教会の役割

カール11世の治世下において、教会は国のプロパガンダを民衆に伝える装置としての役割を果たしていました。

ミサの時間を通じ、人々は現在の国と王について、そして将来の国の在り方についてを知らされていました。

lösdriverilagen

そんな中、カール11世のやり方により追いやられた集団もありました。

17世紀、ある法律が制定されました。浮浪・放浪者を取り締まる(禁止する)法律(lösdriverilangen)です。

これによって損害を受けたのが、サーミの人たちでした。

サーミ人たちは、当時、北方だけでなく、メーラダーレン(スウェーデン中部)の辺りまで広範囲にわたり住んでいました。

彼らの職業は様々で、都市生活者もいれば、農民、漁師、そして遊牧民(移住民)もいました。

中でも特に移動を生業としていた集団は、固定の住所を持っていなかったため、徴税することが難しく、国は彼らを北方の地に定住するように強制しました(税金を払ってもらうために)。

これは徴税のための政策だったようですが、こうした政策がサーミ人たちへの人々の見方を変えることになりました。

「私たちスウェーデン人」と、「彼らサーミ人」という意識の切り分けです。

サーミ人たちの作る生産品(※動物の骨や皮を使った道具や装飾品)はエキゾチックで高品質だとされ、人々の間で関心が高まる一方で、彼らが(強制的に)住むことになった北方の地が、まるでスウェーデンが持つ広大な植民地かのように語られるようになっていった、とも言われます。

不作と「神の罰」、カール11世の死

当時のスウェーデンは天候不良による不作が続いていました。

今よりも寒冷な気候だったことに加え、あたたかい冬、凍えるような夏を経験。厳しい飢えの時代が続きました。

今は有名な讃美歌「Den blomstertid nu kommer(花咲く季節が来た←※卒業シーズンなどによく歌われる歌)」が歌われるようになったのも、まさにこの厳しい時代においてだったそうです。

★Den blomstertid nu kommer↓歌詞の内容が華やかで穏やかなので、飢えの時代に歌われるようになったというのが意外で皮肉な感じがします。非常に有名な歌で、今は春~卒業シーズンの定番の歌となっています。

こうした不作の時代に、カール11世は癌に倒れ、人々は「スウェーデンという国全体が、神から罰を与えられているのだ」と考えるようになりました。

カール11世は亡くなり、その数か月後、(おそらくビルイェル・ヤールの時代に基礎が作られて)長い間王の居所として使われてきたストックホルムの城「トレー・クローノル城(3つの王冠城)」が火事で燃えてしまいました。

参考:Wikipedia「カール11世」


今回はここまで。次回はカール11世の息子のカール12世が王位を継承したところからになります。

確か次回出てくるカール12世が、カロリーネル部隊が遺体を持ち帰った時の王(カロリーネルマルシェンの曲に関連する王)だったと思います。

今回は結構進みました。戦いの部分はちょっと省略しつつ、こんな感じでサクサク進めればあと6回くらいで現代にたどり着く気がするので、次回の更新がいつになるかわかりませんが、地道に終わりまで続けていきたいと思います!