今回は、もともとは別のことを書こうと思っていたのですが、昨日「あ、そうか!」と気づいたことがあったので、書きたいと思います。
スウェーデンの伝統音楽の対等性に気づいた話です。
かみ合わない会話にもやもや
昨日、ちょっと会話がかみ合わないな~と思ったことがあって、詳細は書けないのですが、「なぜ、かみ合わないのか?」が全然わからなくて、もやもやしていたんです。
でも、その原因がわかってすっきりしました。
すっきりしただけでなく、学びになったので、ぜひ書こうと思いました。
自分では気づかない「常識」
その話の前に、まずはちょっと回り道で、関係ないことから書いていきますが…
「自分の周りでは当たり前になっていることが、実は世間では全然当たり前じゃなかった」みたいなことってありますよね?
誰でも経験があると思うのですが、私自身も、そういうのをたくさん経験してきました。
私の場合、特に多かったのは、「スウェーデンの文化」について。
私、留学中に、スウェーデンの文化に対してあまり「変だ」とか疑問を感じることが無かったんです。全く無かったわけでは無かったと思うのですが、「ふーん、そういうものか」と思って、わりとすんなり受け入れてきたみたいなんですよね。郷に入っては郷に従え。
で、いざ日本に帰ってきて、「スウェーデンで印象的だったことは?」とか「スウェーデンの話をしてください」とか聞かれても……何も出てこない!
なぜなら、私にとってはどれも「普通の日常」だったからです。
スウェーデンの文化を「外側から眺める」ということができなかったんですね。
なので、夏至祭とかも、「別に普通の夏至祭だよね」と思っていたし、クリスマスも「まあ普通のクリスマスだよね」と思っていて、「スウェーデンの夏至祭の話をしてください」と言われても、「…え、何を話したら良いんだろう?普通に夏至祭なんだけど…。夏至祭は夏至祭だし…。夏至祭です、以外に言えない…」と途方に暮れていました。
それであまりにもMCに困ったので、他の日本人の方がスウェーデンのことを紹介しているイベントに行ったり、動画を見たり、さらにそれを聞いた周りの人たちのリアクション(「ああ、そうなんだ~」とか「へえ~」と言っているリアクション)を聞いて、「なるほど、ポールを立てることを話すと喜ばれるのか」とか「花の冠を作ることを話そう」みたいな感じで。
そうやって、必死にスウェーデンの文化の「伝え方」に対するネタを集めてきたところがありました。
(あと、「スウェーデンの変なところ」とかもそうで、私は全然意識していなかったようなことを他の日本人の方が「変だ」と言っているのを聞いて、「あ、確かに変かも!」と後から気づいて、「私も今度使おう!」とか思ったりしています)
★「伝え方」に関する過去の私の悩み+試行錯誤の経過を示す記事↓
◎ニッケルハルパの良さを伝えるのが怖かった時期があったこと(2020.12.22)
◎考えていること、当たり前のことを言葉で表現することの大切さ(伝統音楽・ニッケルハルパの場合)(2023.4.12)
◎曲紹介の仕方について(スウェーデンのテンプレではなく、日本で伝わる言い方へ)(2025.10.22)
伝統音楽やニッケルハルパについては、自分の「常識」にまだまだ無自覚
さて、そうやって「伝え方」について少しずつ学んできた私ですが、伝統音楽やニッケルハルパに関してはまだ探り探りです。
なぜなら、「スウェーデンの文化全般」であれば最近は色々な日本語のコンテンツが増えていますが、「伝統音楽を伝える人やコンテンツ」というのは、日本ではまだまだ限られているからです。
もちろんゼロではありません。何人か(何十人か)はいらっしゃいます。でも逆に、何人かしか、いらっしゃいません。
おまけに、伝統音楽にどっぷりつかっている人ほど伝統音楽の文化に染まってしまっているので、そういう人達と話していても、「常識」が通じてしまうんですよね。
当たり前だよね、と思っている感覚がお互いに一緒なので。
そうするとどうなるかというと…
「この音楽を全然知らない方との会話がかみ合わない!」
「しかも、「なぜ」かみ合わないのかが全然わからない!!」
という事態になります。昨日の私です。
私も、演奏を聴いてくださったお客さまや、この音楽初めてです、という方と接している時なら大丈夫なんです。
でも、音楽関係のお仕事の方との会話で、音楽に関する常識や知識が「前提」「暗黙の了解」みたいになっている場面だと、どうしても気がゆるんでしまって、「…なんか…かみ合わないけど、なんでかみ合わないんだろうか?わからない…」と思ってしまうんですよね。
相手が自分と同じものを見ているだろうと、無意識に思ってしまう。
でも気づいたんです。
「あ、これって、相手や私が悪いわけじゃなくて、『スウェーデンの伝統音楽だと常識だけど、他の音楽では常識ではないこと』に、私が無自覚なだけなんだ」と。
そして、その「私は常識だと思っていたけど、他の音楽では常識ではない要素」って、おそらく「スウェーデンの伝統音楽の特徴的な要素」の1つですよね。その要素を持たない音楽が存在するのだから。
つまり、かみ合わない会話に出会えば出会うほど、この音楽のおもしろさを伝えるネタが1つ増えるんだ!これは発見だ!と思ったわけです。
(かみ合わない会話をすると私はかなりへこみますが、こういう風に考えれば、怖くない!…かも?)
スウェーデンの伝統音楽は、共演者が皆、対等
具体的に昨日私が気づいたことは、「スウェーデンの伝統音楽は、共演者が皆、対等だ」ということです。
「え、共演者が対等って、そんなの当たり前じゃん。他に何があるの?」と思ったそこのあなた。
…あなたは、スウェーデンの伝統音楽を、多少なりともかじっていますね?(笑)
まあ、スウェーデンの伝統音楽だけではないと思うのですが、特にスウェーデンの伝統音楽の場合、共演者が皆さん「対等」という前提があるんです。
つまり、「一緒に演奏している人のうち、誰かがメインで誰かがそのサブ」みたいなことって無いんですよ。
たとえばデュオなら、「メインの人+伴奏の人」という考え方…ではなくて!
「2人のデュオ」なんです。
1人+1人なんです。たとえ片方が伴奏楽器だったとしても、ミュージシャン2人なんです。メロディを弾く方が偉いとか、上手い方がメロディをとるとか、そういうのはありません。
どっちが何の楽器をやっていても、それは一緒です。どっちも対等です。
私は歌の人ではないのでわかりませんが、おそらく「歌とギター」とかでも一緒じゃないでしょうか。
歌う人がメインでギターがサブ、ではなくて、「2人のデュオ」です。それはもう、告知したりプログラムに書いたりする時点で、そうなんです。
「相手と自分は違うもの見ている」という視点を、具体的に持つ
…というようなことを私は当たり前のように思っていたのですが、「これはどうやら当たり前ではないらしい」ということに昨日の夜気づいて、「そっかー」と思いました。
私がかみ合わないと思った会話は、とにかく「2人で演奏するなら、片方がメインであること前提」で話が進んでいたんです。
それに対して私はなんかもやもやして、でも、何がもやもやするのかわからなかったのですが、「そうか、こんな風にもやもやするのは、私がスウェーデンの伝統音楽をたくさんやってきたからで、『共演者は皆対等だ』と無意識に思い込んでいたからなんだな」と。
そして同時に、私が「対等なのは当然だ」と思いこんでいたのと同じように、「2人以上いるなら、メインとサブがあるのが当然だ」と考える人もいて当たり前なんです。
確かに、たとえば「ソプラノ歌手とその伴奏」とかだと、ソプラノ歌手の方がメインですもんね。そこに「2人のデュオ感」は別にないですもんね。(もちろん相性などはあると思いますが、プログラムに「デュオ」とは書かないですよね)
それぞれの考え方に良さがあると思うので、どちらが良くてどちらが悪いというわけではないのですが、このスウェーデンの伝統音楽の「対等さ」みたいなの、私はすごく好きなんだろうなと思いました。
まあ、今まで全然意識してこなかった要素なので、好きかどうかもよくわかっていませんが…たぶんそういう所が好きだからこの音楽をやっているのだろうな~と思います。
そして、「私が今お話ししている相手は、そういう視点を持っていないかもしれない」ということを頭の片隅にとどめながら話すことで、おそらく「会話のかみ合わなさ」はかなり解消されるし、
「スウェーデンの伝統音楽だと、こういう考え方なので、だから私はこういう考え方をしているんですよ」というのを、私の方から相手に言葉で伝えられるだろうと思いました。
「相手と自分が違うものを見ている」というのは、誰でも頭ではわかっていることだと思うのですが、「具体的にどういう点で違うものの見方をしているのか」という、細かい視点を経験値として集めると良いな、と。次に活かせるな、と思いました。
以上のようなことを、昨日の夜、ちょっと考えてみました。
色々と書きましたが、私にとっては良い学びと発見でした。
これからも、私はきっとかみ合わない会話を繰り広げ続け、へこみ続けると思いますが(笑)、そのたびに、伝統音楽やニッケルハルパの特徴や魅力に気づけたと思って、心折れずに楽しくやっていきたいと思います!
伝え方に関しても、これからもきっと悩んで試行錯誤し続けると思いますが、ちょっとずつ上手くなっていくはずだと信じて、頑張りたいと思います。
