伝統音楽では、人伝えで曲を教わることが多いです。
今回はこの「曲を教わる」ことについて、私が普段思っていることを書きます。
曲を教わる=大切なものを分けてもらう感覚
誰かに曲を教わることは、その人の持っている宝物を見せてもらう(分けてもらう)ようなことだ、と私は感じています。
以前、ブログの中で「伝統音楽の奏者は、自分の出身地域(自分のルーツのある地域など)や、自分と交流のあった奏者が伝えていた曲を弾くことが多い」と書きました。
伝統曲は1曲1曲があっさりしている(1曲が短くてシンプル)ことが多いのですが、奏者はその1曲1曲それぞれに、かなり愛着を持っていると思います。
曲自体はあっさりしていても、曲への思い入れや思い出はその人の中にたくさんあるんです。
そういう大事な曲を「教えてもらう」ことというのは、何か「大切なものを分けてもらっている」ような気分になるんですよね。
曲を教わる時は、毎回そういう気分になります。
「どの曲を教えるか」は基本的に「教える側」が決めることなので、教える当の本人が全然弾き慣れていない曲や、歌い慣れていない歌を、あえて他人に教えようとは思わないはずなんです。
つまり、「教えてくれる」という時点で、その曲がその人にとって何かしら意味がある曲だということです。
そんな大事な曲を分けてもらえることは、とてもありがたいことだなと私は思っています。
状況とセットで贈られるプレゼント
また、「その曲を教えてくれた状況」というのも結構大きくて、この状況だからこそ、この曲を教えてくれたんだな、とわかることもまた嬉しいことだと思います。
今の自分のレベルに合っている曲とか、何かのテクニックを伝えるために選んでくれた曲、その地方らしい曲とか。
その人がいつも定番で教えている曲、とか。(これは「状況」とは関係ないかもしれませんが、これはこれで嬉しい)
私の場合は、ニッケルハルパの留学中に祖母が亡くなり日本に一時帰国したことがあるのですが、1週間ほど日本で過ごし、またスウェーデンに戻った時、授業で最初に教わった曲がとても印象的でした。先生は特にそうだとは言っていませんでしたが、お悔やみの気持ちを込めて教えてくれた曲なのかな、と思わせる曲でした。
人から教わる曲というのは、1曲1曲がプレゼントだと思います。
それが別に自分個人宛てでなくても、その時その曲を教わった人が自分以外にもたくさんいたとしても、自分は不特定多数のうちの一人だったとしても、あまり関係ありません。
その曲はその人からのプレゼントで、自分がそれを受け取りさえすれば、「贈り・贈られる」関係性は成立するのだと思います。
自分の中であたためる
そうしてもらったプレゼントを自分の中でどうあたためるか、というのを私はよく考えています。
私は以前Twitterで毎日違う曲を投稿していました。
あの時に投稿していた曲がだいたい私のレパートリーになっていると思うのですが、その中でも「自分の中でじっくり取り組んでいる曲」というのはまだまだ数が限られています。
私の場合は1曲1曲に本当に時間がかかるので、自分の中でその曲が成熟するまで待っていると、全体として結構なスローペースになるんですね。
私のやり方としては、「教えてくれた人の演奏の良さ・エッセンスを自分の中で消化しつつ、最終的には自分にとってもしっくりくる形までひとまず持って行く」というのを1つの区切りにしています。
曲のあたため方は人によって違いますし、状況によっても求められるものは変わると思いますが、付き合いの長い曲というのはそれだけで自分に安心感をくれるなあと感じています。
楽器を長く続ければ続けるほど、そういう曲は自然と増えていくので、続ければ続けるほど、自分の味方・仲間(=曲)が増えるような、そんな気持ちでいます。
昨日、「続けること」についてブログで書きましたが、これもまた続けることの恩恵ですね。
そうして、人から教わって、自分の中であたためている曲を、今度は自分も他の人と共有できたら良いなと思いながら、演奏やレッスンをさせていただいています。
以上、「曲を教わることはプレゼントをもらうこと」について、書きました。
参考になりましたら幸いです。
お読みいただき、ありがとうございました。