歴史の記事です。
前回は魔女裁判とカール11世の話でした。
今回はカール12世の治世について見て行きます。ほとんど全部戦争の話なのですが、ニッケルハルパ的には曲と関連する話が出てくる(カール12世が出てくる曲がある)ので、曲にまつわるエピソードとしても読んでいただけるのではないかと思います。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)、⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
カール12世の治世ー大北方戦争
カール11世が亡くなった後、息子のカール12世が王位を継承しました。
1697年頃のことです。当時彼はまだ14~15歳。そんな若い国王が率いるスウェーデンに対し、周囲の大国は攻め入る隙を伺います。
1700年、スウェーデンと、反スウェーデン同盟((現在の)ポーランド・ロシア・デンマーク)との間で戦争が起きました。これが大北方戦争(Stora nordiska kriget)です。
大北方戦争
(※大北方戦争ですが、約21年間ほど続いた戦争だったそうです。詳細に書くと膨大な量になりそうなので、かいつまんで書いていきますね)
この戦いで、カール12世とカロリーネル部隊(軍)の兵士たちは、まず始めにスコーネ地方へ南下。そこでデンマーク軍を撃退します。
続いてナルヴァ(Narva。現在のエストニアの都市)にてロシア軍と相対します。ロシア軍には、スウェーデン軍の約4倍の人数の兵士がいました。
スウェーデン軍の未来は無いものと思われましたが、ここでもスウェーデン軍はロシア軍を撃退します。この報せに歓喜するスウェーデンの民衆たち。
この「ナルヴァの戦い」において、カール12世が「勇敢にも最前線で戦った」(※当時の王としては珍しい行動だった)ことから、カール12世の「戦争で戦い抜く王(闘将、兵隊王)」というイメージが人々の間に刻み込まれ、何世紀にもわたって語り継がれることとなりました。
(※カール12世は「熊殺し」という異名も持っていたそうです)
その後、カール12世はポーランドと北ドイツへと軍を進めます。
そのままスウェーデンへは帰らずに、数年間大陸に残り、戦争を続けました。
1708年、ポーランド・リトアニアの辺りを離れたカール12世は今度は東に向かい、再びロシア軍と対峙。
1709年、ポルタヴァの戦いにおいてスウェーデン軍は敗れます。多くの人が捕虜となりました。
戦争中の様子ー議会/兵士たち
王が戦争に行っている間も、手紙によって、王がスウェーデン国内の決め事(議会の最終決定)を行っていました。
現存されている手紙を読むと、カール12世が議会に対して「より多くの金と兵士を戦地に送るように」と要求していたことなどもわかり、資金や兵力が足りていなかったことがわかります。
また、「数年間の戦争」と言っても、ずっと戦っているわけではなく、多くの時間、兵士たちは地元住民の協力のもとで野営し、移動しながら戦いに備えていました。
その際、道具の準備や、食事の用意、荷物を運ぶための馬、医者・看護師など、地域の人々の協力は欠かせず、女性が手伝いに入ることもよくありました。
カール12世は必要以上に女性が兵士たちと近づくことを避け、病気の看護などの最低限の接触に留めるように制限しましたが、そういった女性たちと兵士たちが結婚することもあり、軍もそれを認めました。
(※また、この記事では割愛しますが、番組では「ある兵士が故郷の妻にあてた手紙」が何通か紹介されていました。その兵士は自分の息子を兵士にさせたくなかったようですが、息子もまた兵士になり、同じ部隊へ所属。しかし、息子の方が彼よりも先に(足を撃たれて)亡くなったことが手紙に書かれていました。息子が亡くなったのと同じ年に、彼もまた亡くなったそうです)
ペストの再来
ポルタヴァの戦いでスウェーデンがロシアに敗れたすぐ後、ストックホルムでは新たな災厄がもたらされていました。
1710年、ペストの再来です。
感染した者は数日間のうちに亡くなりました。
当時55,000人ほどいたストックホルムの住民の、約半数にあたる22,000人がたったの半年間でペストにより亡くなりました。
ペストで亡くなった住民の住んでいた家には白い十字の印がつけられ、町からは人が消えました。
学校、結婚式、葬式などの集まりはすべて中止となり、多くの野良猫や野良犬が処分されました。
さらなる徴税と、戦争からの撤退→新たな戦争に備える
ポルタヴァの戦いにおいて大敗を喫していたカール12世でしたが、彼は新たな兵力と財源の獲得をまだ諦めておらず、戦地に留まり、さらにスウェーデン国民に対し、自身の財産の2パーセントを税金として支払うように命じます。
これが国民たちをより苦しめることとなりました。
ペストで人が亡くなり、飢えが蔓延し、多くの男性が兵力として連れていかれたストックホルムの街。
人口は一時的に女性の割合が増え、女性によるスリの犯罪が男性のスリを上回ったと言われます。
1714年、カール12世が大北方戦争のため国外へ行ってから14年が経過した頃、ついに兵力とお金が尽きました。
戦争の終わり(敗北。ただし一時的な休戦だった)と、国王・軍隊のスウェーデンへの帰還です。
この時、誰もが「これから平和な時代が訪れる」と考えましたが、カール12世は再び次の戦争に備え始めました。新しい兵力と財源の確保です。
(そんなカール12世ですが、反発や反対勢力などはあまり無かったそうです。これは、絶対君主制の社会において、「神に選ばれた国王」に歯向かうことというのが、いかに難しく、考えにくいことだったのかを物語っています)
新しい世代の兵力を獲得したカール12世は、再びデンマークとの戦争に勝つため、南下して攻め入る代わりに、当時デンマーク領であった「ノルウェー側」から攻め入ることを計画しました。
これがのちに、「カロリーネル・マルシェン」の曲にもつながる、カロリーネル部隊の「冬の山越え」へと結びついていきます。
軍を支えたパンの技術
ここで話が少しそれますが、当時そういった兵士たちを支えたものをご紹介します。
彼らの食料である「パン」の改良と確保です。
新たな戦争に向けて、国王は食料の確保に注力。「なるべく栄養価が高く保存に優れたパンを作るように」と人々に命じました。
結果、できあがったのは、「小さく切られた、硬く乾燥させたパン」です(※番組で出てきた見た目だと、大きめの黒っぽいクルトンみたいな感じでした)。食べる時には水分でふやかして食べるようになっていました。
国中のパン屋や、食料調達係の人々が小屋(戦地ノルウェーの国境付近に至るまでに存在する、様々な小屋)で、こういったパンをせっせと焼き、軍を支えました。
(こういった食料を準備することで、先ほどの話のような「野営先(戦地、敵国)での住民の協力」をあおがずとも、食料を自分たちでまかなうことができました)
この時作られたパンのレシピは、現在でも軍の食料の1つとして使われているそうです。
「死ななない王」カール12世の死ー冬のノルウェーと山越え。【カロリーネルの死の行進】
話を戦争に戻します。
当時、スウェーデン国や国民は疲弊していましたが、軍の兵士たちは、国王カール12世に対して忠誠を誓う者が多かったと言われます。
彼は「英雄」であり、ほとんど「死なない人物」のように周囲から思われていたところがありました。
戦争中も、王だからといって安全な場所に逃げるのではなく、「自ら前線にたち、勇敢で、皆を率いるリーダー」だったそうです(※実際どうだったのかはわかりませんが、少なくともそういうイメージで語られることが多いそうです)。
そんなカール12世でしたが、1718年11月30日(スウェーデン暦)、ノルウェーにて狙撃され、突然亡くなります。
この時の詳しい状況はよくわかっていませんが、おそらく当時の敵軍の大砲(キャニスター弾と呼ばれる、大量の散弾や破片が詰められた弾)がたまたま国王に命中。頭蓋骨を貫き、それが致命的となって、(敵軍も状況がよくわかっていないうちに)亡くなったのではないか、ということです。
カロリーネル部隊はここで撤退しました。
↓こちらの絵画は、カール12世の死から約166年後、グスタフ・セーデルストルム(Gustaf Cederström)が描いたものです。Wikipedia「グスタヴ・セーデルストルム」
この絵は非常に有名な絵ですが、画家の想像で描かれた部分もあり、実際の様子は少し異なっていただろうと思われます。例えば、王の遺体はこんな風に運ばれたのではなく、実際は棺桶に入れられて運ばれたであろうこと、などです。
1719年の元日、約6000人の兵士が王の棺桶をスウェーデンへと運ぶため、ノルウェー・スウェーデン間の山越えをします。
冬の山はひどい寒さで、充分な防寒具も食料もありませんでした。
この時、少なくとも約3000人の兵士が山で亡くなったと言われています。また、生き残った人々のうち約600人は一生残る傷(障がい)を負いました。
これは、今では「カロリーネルの死の行進(カロリーネナの死の行進、Karolinernas dödsmarschen)」と呼ばれています。
カール12世の死により、スウェーデンのバルト帝国時代は終焉を迎えます。
★さきほどの絵で流れていた曲が、以前もご紹介した「カロリーネル・マルシェン(Karolinermarschen)」という曲です。ニッケルハルパ奏者のエリック・サールストルム(Eric Sahlström)が作曲しました(動画の演奏はニッケルハルパ奏者Peter Puma Hedlund、通称「プーマ」による演奏)。
カール12世の死後
とはいえ、カール12世が亡くなっただけではまだ戦争は終わりません。
王位を継いだのは、カール12世の妹のウルリカ・エレオノーラ(Ulrika Eleonora)。
彼女を始め、スウェーデンはロシアとの終戦を試みますが、その後数年間にわたりロシアが勢力を拡大。フィンランドやスウェーデンの海沿いの地域にまでロシアが進出していました。
しかし、その後すぐにスウェーデンがデンマークと和平を結びます(スウェーデン側がお金を支払うかたちで)。そして、ロシアとも。
ロシアに捕らえられていた捕虜の一部も解放されました。
(彼らは故郷へと帰りましたが、長い間帰っていなかった兵士たちは「亡くなった」ことになっていたため、かつての妻は新しい兵士と再婚していたりして、故郷に帰ったとしても厳しい状況だったことも多かったそうです)
当時、約3人に1人の男性が兵士や軍の仕事で亡くなっていました。
おまけ:カール12世のワルツ
カール12世と言えば、ウップランド地方の曲で有名な曲があります。
「カール・デン・トルフテス・ヴァルス(カール12世のワルツ、Karl XII:s vals)」です。ゴース・アンダーシュ(Gås-Anders)伝承。
(※XII:sは「デン・トルフテス」と読みます。12番目の、という意味です。デン(den)は序数につけるのですが、書いたり書かなかったりしますが(序数の表記方法が人によって違ったりするので)、書いていなくても「デン」をつけて読むことが多いかな?と思っています)
この曲がなぜカール12世のワルツと呼ばれているのかは私はわからないのですが、カール12世の躍進を称えて、みたいなことなのかな?と勝手に思っています。
曲はすごく明るくて、私も大好きな曲です。
調べると、この曲以外にも(ウップランド地方以外の曲で)「カール12世のワルツ」という曲があるみたいですね。楽譜が出てきます。
ということで、今回はここまで。
このくらいまでで、スウェーデンのバルト帝国時代が終わりになるみたいですね。
次回からは新しい文化や時代の幕開け、といったところでしょうか。まだ見ていないのでわかりませんが、文化の話題になるとおもしろそうだなと思います。
やっと18世紀の半ばまで来まして、私としては感慨深いです。「果たしてこの記事に需要があるのか?」なんてことはさておき、スウェーデンの流れがわかるとやっぱり色々と良い気がしています。
たぶんこの辺の時代に、ニッケルハルパがすでに演奏され始めていたか、もしくはこれから演奏されるようになる…くらいだと思いますが、戦争が続く時代に、よく楽器を思いついて、演奏してくれていたな~と。ありがたく思っています。
次回は、違う感じのブログの記事をいくつかはさんでからの更新にしようかと思っています。
