峰村茜のホームページへようこそ!どうぞごゆっくりご覧ください。

スウェーデンの歴史⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展

/ ニッケルハルパ奏者

歴史のシリーズです。

前回の内容で、18世紀はじめ、カール12世の治世(~1718年頃)と大北方戦争について見てきました。

今回は彼が亡くなった後の時代「自由の時代」(1719年~)の社会を見て行きます。社会が大きく変化した時期です。

自由の時代(Frihetstiden)

議会制への移行

1718年にカール12世がノルウェーで亡くなり、彼の妹ウルリカ・エレオノーラが王位を継ぎました。

この時、貴族たちが働きかけ、カール11世以降続いていた絶対王政(絶対君主制)が終わりを迎え、議会が国政を取り仕切るようになりました。

「自由の時代(Frihetstiden)」の始まりです。

絶対王政を退けた背景として、カール12世の長い戦争により、国や国民が疲弊していたことが挙げられます。

貴族たちは、彼が亡くなったタイミングで議会に権力を集めることで、今後同じこと(=度重なる戦争・長く続く戦争)が起きるのを防ごうとしたのです。

また、議会はウルリカ・エレオノーラにも王位を一度放棄させました。代わりに、「議会が彼女を選ぶ」という形式にて再度彼女が女王となりましたが、1年後には退位してしまいます。

彼女の次に王となったのは、夫のフレドリク(Fredrik、フレドリク1世)でした。

しかし彼も権力を持つことは許されませんでした。あらゆることの決定権が王には無かっただめ、彼は政治への野心はあまり持たずに、趣味の狩猟などに関心を向けていました。

当時は全ての決定が、議会によって承認される必要がありました。

このスウェーデンの政治形態は、他のヨーロッパの大国からは特異に見えたようです。

フランスの哲学者ヴォルテールは、スウェーデンを「世界で最も自由な国」だと称し、ルソーもまた「スウェーデンの議会制は完璧な例のひとつだ」と言ったそうです。

Wikipedia「自由の時代」

議会(Riksdagen)

当時の議会は、4つの身分からの代表により構成されていました(身分制)。

貴族(Adel)、聖職者(Präster)、ブルジョワジー(Borgare)、農民(Bönder)です。

(※ブルジョワジーが少しわかりにくいかと思いましたが、「中産階級」「有産階級」「都市の裕福な資本家や商人」などを指すそうです)

しかし、大多数のスウェーデン人は財産を持っておらず、この身分のどこにも属していませんでした。例えば農民の家で働くメイドや下男、そして一般市民(課税財産を持っていなかった市民)には、参政権がありませんでした。

農民たちの不満

また、議会の身分の1つとして認められていた農民たちですら、議会ではその権限に制限が設けられていました。

農民たちは議会に参加はできるものの、意見はあまり聞き入れられず、外交・財政・防衛面での政策に関しては口を出すことができませんでした。

次第に、彼らは「貴族たちが、農民たちの生活に関わる重要なことを全て決めてしまう」ことに対して不満を持つようになります。

彼らにとっては、「神に選ばれた強い王」の方が、貴族たちよりもはるかに良いと考えました。

特に若い貴族の一部は、ロシアに対して新しい戦争を仕掛けようともくろんでいましたが、それはつまり再び農民たちの命が多く失われるということです。そのことを、農民たち自身が一番よく知っていました。

(この時期に戦争を推進しようとしていた人たちは現実を見ておらず、楽観的。反対に、戦争に反対していた人々は過去の経験から、どれだけ多くの人の命が奪われ、国が疲弊するかを知っていたのです)

農民は再び絶対王政を望むようになりました。

1743年、ダーラナの農民たちによる反乱(Dalupproret 1743)

ウルリカ・エレオノーラの後、王となったフレドリク1世ですが、彼は権力をあまり持たないまますでに20年以上、国王を務めていました。

そして、彼(とウルリカ)には子どもがおらず、誰が王位を継承するのかが問題でした。

この王位継承問題について、議会でも議論がなされますが、この時立ち上がったのがダーラナ地方の農民たちです。

王位継承問題は彼らにとっても重要だったため、議論に参加できないことに対して反乱を起こし、自分達の意見を聞き入れてもらおうとしました。

地域のリーダー(行政官/知事)たちは彼らを説得しようと試みましたが、彼らは聞く耳を持ちませんでした。農民たちはもう、言うことを聞かされるのはこりごりだったのです。

さらに、王位継承問題だけではなく、彼らは「戦争を止めるように」と求めました。そして、戦争推進派の世代(貴族たち)は処刑されるべきだ、と。

ストックホルムへ

数千人の農民がストックホルムまでやってきました。ダーラナの農民たちによる反乱です。

しかし、結果は彼らの望む通りにはなりませんでした。

農民たちは交渉を望みましたが、町は軍隊を出動。90人の農民が傷を負い、40人が亡くなり(殺され)ました。

数千人の農民たちも、皆捕らえられました。

処刑と罰

当時の法律に従えば、10人に1人の割合で農民たちを処刑(死刑)するはずでしたが、あまりにも多くの人数を処刑することに対する抵抗から(あまり多くの人数を処刑すると、かえって反発をあおるのではないかという不安があり)、数千人の反乱に対して、実際に処刑されたのは6人のリーダーたちだったと言われています。

その他の者には、処刑の代わりに別の罰が与えられました。「恥」の罰です。

捕らえられた多くの農民は、その後すぐに自身の故郷へと帰らされましたが、この際、「帽子を身につけること」を許されなかったそうです。

当時の「帽子」というのは非常に重要で、階級の「シンボル」のような意味がありました。

帽子をかぶらずに町を歩き続け、故郷へと帰ることは、今で言えばズボンを身につけることを許されずに、恥をさらしたまま、長い旅路を行くのと同じでした。

人々の政治参加への意識の変化

このダーラナの農民たちの反乱は、スウェーデンで起きた最後の「農民たちによる反乱」でした。

結果は彼らの望むようにはいきませんでしたが、この出来事が、ダーラナ地方にとどまらずスウェーデン全体における、農民たちとの政治の在り方を変える(少なくとも人々に考えさせる)きっかけになったとも言われています。

農民たちも他の身分の人々と同じように政治に参加する能力があり、参加可能であるべきだ、という考えが、少しずつ浸透していきました。

「自由の時代」において、政治参加に対する人々の意欲が大いに増していたということがうかがえます。

交易による文化の変化。身分制を守ろうとする者と抗う者

この頃、政治に留まらず、スウェーデンはあらゆる面で変化を迎えていました。

貿易、ブルジョワジーの台頭

たとえば貿易です。スウェーデンの鉄が世界にどんどん輸出されていきました。

また、ニシンの酢漬けも、奴隷の食べ物として、西インドへと輸出されていました。

1731年、スウェーデン東インド会社(Svenska Ostindiska Companiet)が設立されました。

彼らが行ったのが、中国の広東からアフリカをまわり、スウェーデンのヨーテボリに至るまでの長い航路を使った貿易です。

会社の代表は貴族ではなく、商人、つまりブルジョワジーの階級の人物でした。

このブルジョワジー階級の人々が、18世紀において台頭していきます。

彼らのうちの何人かは、かなり上位の富裕層となりました。一回の交易においてもたらされる富が、それだけ大きかったのです。

贅沢品が庶民の生活へ

この頃、エキゾチックな品物が次々とスウェーデンへ入ってきました。茶、陶磁器、綿製品など。

なかでもスウェーデン人がとても夢中になったのが、コーヒーでした。

コーヒーは出がらしを繰り返し使って飲むことができたため、「雇われ身分の人々や貧しい民衆たちでも楽しめる贅沢」として受け入れられ、コーヒーを飲む習慣は、一般民衆の間にまで広まっていきました。

身分制(古いしきたり)を守ろうとする権力者たちと、あらがう人たち

しかし、外国の贅沢な文化を民衆が味わえるようになることで、スウェーデン国内の文化や国力の衰退、ひいては「身分差がなくなること」を怖れる権力者たちもいました。

権力者たちは人々が着るものや食べるもの、何をするか(職業など)を制限する法律を設けました。

これにより、スウェーデン国内の経済と、古い身分制度を守ろうとしたのです。

(身分制というのは、それが「目に見える形」「一目瞭然」である方が上手く働くので、服装などで人々が「お互いの身分を自覚する」ような社会の仕組みを作ろうとしたのだそうです)

一方で、古いしきたりに抗う人々もいました。

例えば、マイヤ・スティーナ・シェルストルム(Maja Stina(Kristina) Källström)です。

彼女は宮廷詩人ベルマン(Bellman)の作品に登場する、ウッラ・ヴィンブラード(Ulla Winblad)という女性のキャラクターのモデルとして、後々に国中で知られるようになる人物で、華美な服装をしていました。

当時、外国製の美しい布地を使ったような華美な服装が許されたのは、貴族の女性たちだけで、一般市民はスウェーデン製の綿やウールを身につけなければいけませんでした。

身分にふさわしくない服装は法律違反だったので、マイヤは警察につかまりましたが、彼女は身分の高い男性に書かせた許可状を持っていたために、許されたそうです。

彼女がどのようにしてこの許可状を得たのかは不明(※一般的に考えられるものとしては、娼婦などの仕事の報酬として得た、など)ですが、こういった行為は「古い身分制度に対する反抗の一つ」として見ることができ、彼女以外にも、古い価値観に抵抗する人々がいました。

古いものと新しいものとの、たたかい。

これが18世紀のスウェーデン全体を象徴していました。

学問・研究

他にも、この頃のスウェーデンで広がりを見せていた「新しいもの」が、学問や研究でした。

「世界は研究され、説明されるべきだ」という見方が人々の間に生まれていました。

リンネの研究

カール・フォン・リンネ(Carl von Linné)はこの時代のスウェーデンを象徴する植物学者です。

彼は、合理的な方法で動植物を分類しました。彼の分類方法は世界に衝撃を与え、のちに「分類学の父」と呼ばれるようになりました。

一方で、彼の人間に対する分類(人種の分類)は、のちに学術界での差別的な研究(人種差別)に繋がるものでもある、と見る人も多くいます。

【リンネの旅】

リンネは動植物の研究のため、スウェーデン中を旅しました。

また、国のためにも働き、地理学や文化学も学びました。彼が色々な地域の「資源」について記録し、国に報告することで、国は資源の有効活用(=社会のための財源とする)を試みることができました。

彼の報告(旅の報告)で最もよく知られるものは、ラップランド地方(スウェーデン北部)の報告です。それまで、北方地域についてはわからないことが多かった(国が把握していないことが多かった)のですが、リンネの報告により北方の動植物や地理についての基本的な知識が得られるようになりました。

この報告は「フローラ・ラポニカ(Flora Lapponica、ラップランド植物誌)」という本として出版され、世界的に読まれることとなりました。

【聖書に反しない範囲での学問】

リンネは自身の研究に没頭していましたが、旅をする中で、「当時の理屈」では説明できないようなものに度々出くわしました。

たとえば、ゴットランド島の大きな岩です。この岩は、ゴットランド島には存在しないはずの成分を含んでおり、どうやってそこにたどり着いたのか、いつからあるのか、当時の理屈では説明することができませんでした。

この「当時の理屈」というのは、聖書に基づいた説明です。

ゴットランド島の岩は、実は約1万3千年前の大陸氷河の影響で存在していたのですが、聖書によれば「神がこの世界を作ったのは数千年前」であり、たとえば「氷河期」といった時代は、リンネを始めとして人々の常識の中には存在していませんでした。また、その存在について思考を巡らせる(=聖書を疑う)こともありませんでした。

リンネはこの岩について、「海底から、川によって流されてきたのかも」と、あくまでも“聖書の記述に反しない範囲内”でなんとか仮説を立てていましたが、その文体から、彼が自身の仮説に対して半信半疑であったことがうかがえます。

これはこの頃の学者たちに共通する姿勢でした。

彼らは学問の探求者でありながら、同時に敬虔なクリスチャンでもあったので、どちらの立場も尊重した研究方法がとられていました。

それでもリンネの研究は、スウェーデンの学術界に大きな影響をもたらしました。

スウェーデン王立科学アカデミーの設立、農業の効率化

彼は、スウェーデン王立科学アカデミーの設立にも関与しました。

この王立科学アカデミーの存在が後押しとなり、学者たちは「古い価値観にとらわれない研究」を行うようになりました。

特に、「実用的な学問」が重要視されました。これはすなわち、「どうしたら作物がより多く実る耕作地になるのか」とか、「農作業をより効率的に行うにはどうした良いか(耕作に有用な器具の開発)」、などです。

スウェーデンは長い間、飢えや貧困に苦しんできたため、この「農業革新」が社会に大きなインパクトを与えました。作物の収穫量が著しく向上。また、器具の開発は農民たちの負担の軽減につながりました。

じゃがいも

今ではスウェーデンの主食として欠かせない「じゃがいも」が食されるようになったのも、この頃です。

当時、じゃがいもは、ただの観賞用の植物でしたが、学者たちはその地下茎を食べることができると発見しました。

さらに、女性の学者エーヴァ・デ・ラ・ガーディ(Eva De la Gardie、もしくはエーヴァ・エーケブラード(Eva Ekeblad))は、じゃがいも(穀物)を使ったお酒「ブレンヴィーン(Brännvin)」のメソッドを発展させました。

ブレンヴィーンはあっという間にスウェーデン中に広まりました。

(彼女は、化粧品などもじゃがいもの粉から作ったそうです)

エーヴァは自身の化学の知識により、スウェーデン王立科学アカデミーの最初の女性メンバーとなりました。

啓蒙運動(Upplysningen)

学者たちの知識や、それをきっかけとした海外との交流は、18世紀のスウェーデンに「啓蒙運動」ももたらしました。

長い間、自然界(動植物)に対して向けられていた研究のまなざしが、次第に人間の身体や社会に向くようになったのです。

知識、科学、そういったものを活用して、人々は「より良い社会」「より良い政治」を目指し始めます。

科学的な発見や発展を目の当たりにした人々は、さらなる成長や、夢の実現が「可能なのだ」ということに気づき始めました。

しかし、自由な考えを持つことは、リスクを伴うものでもありました。

たとえば権力者の地位を脅かすような新しい考え方は制限がかけられることもありました。

次回、「出版の自由」の話から書いていきます。


ということで、18世紀についての色々でした。

今回の内容、私としてはすごくおもしろいな~と思いました。

スウェーデンだけではないと思いますが、この辺の時代って、ちょうど漫画や本に出てくる「ファンタジーの世界」や「中世の世界」のモチーフになるような思想や思考の枠組み、世界観のもとが詰まっているような感じがして、色々とワクワクしてしまいます。

戦争が長く続いたスウェーデンにおいて、一時的に平和な時代が訪れ(「自由の時代」にも戦争はあったと思いますが)、その中で学問などが大きく発達した一方で、まだまだ身分制が残っていたり、それに抗う人たちがいたり…。

学問と宗教、学問と政治、学問と農業の発達、この辺もとても興味深いと思いました。学問と宗教については、相容れない部分を、折り合いをつけてなんとかしようとしたり、でもなんとかならなかったり、という感じでしょうか。

また、当時は「帽子」が大きな意味を持つものだった、というのもへえ~と思いました。

この次の記事でおそらく出てくると思いますが(今回は触れなかったのですが)、実は当時権力争いをした2つの派閥があり、それらの派閥名が「帽子の種類」で呼び分けられているみたいです。「○○帽党 vs △△帽党」、みたいな意味の。私もまだあまり把握していなくて、よくわかっていないのですが、おもしろいですよね。

おそらくまた次回以降で戦争の暗い話も出るでしょうし、国内での争いの話も出てくると思いますが、次回も引き続き18世紀のスウェーデンを見て行きます。

次の更新も明後日くらいをめどに頑張ってみたいと思います。