ゴールデン・ウィークですが、皆さんどうお過ごしでしょうか。
さて、歴史のシリーズ、今回は1914年のグスタフ5世の中庭演説の話から、スウェーデン共和制への移行(=国王が政治に介入しなくなる)、そして分断の多い1920年代・1930年代のスウェーデンまでを見て行きます。
1930年代は労働紛争が激しくなっていたようですね。その辺りまでの話になります。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)
・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)、⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)
・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展、⑳自由の時代の終わり(~1772年)出版の自由、党の対立、ベルマン、グスタフ3世、㉑グスタフ3世とその後(ユダヤ人の定住、当時の王室の様子、王の暗殺)(1772~1809年)
・近代国家スウェーデンへ→㉒自由教会とリバイバル運動、産業化、学校の設置(19世紀前半)、㉓学校、アメリカ移住、労働運動、女性の権利と参政権、ナショナリズム(19世紀後半~20世紀初め)
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
1914年、農民の行進と中庭演説-保守派とリベラル派の対立
20世紀初頭、時の国王はグスタフ5世。
ナショナリズム(伝統の存続を望む声)と、民主化(変革を望む声)。両方の動きがスウェーデンに混在していた折、国内外で緊迫した情勢が続き、それまで目に見えない形で存在していた両者の対立がどんどん表面化していきました。
ヨーロッパでは、第一次世界大戦を前に各国間で緊張が高まり、スウェーデンでも戦艦(パンサー艦)を造ることに。
しかし、この戦艦建造をめぐり、自国の防衛強化を重要視する保守派と、国防よりも社会的・政治的な国内の変革を求める労働者・リベラル派(自由党)との対立が激化。ある出来事を引き起こしました。
農民の行進(Bondetåget)
当時の首相はカール・スターフ(Karl Staaff)。彼は自由党(リベラル)であり、社会的な改革を優先するため、「戦艦の建造中止」(国防費の削減)を決定しました。
これに対し、右派の政治家たちや、軍は反発。
さらに、保守派の農民たちも、政府に対する抵抗を示すため、ストックホルムに集結。
多くの農民がストックホルムに集まり、戦艦建造中止を決めた政府に対する、抗議の行進を行いました(Bondetåget=農民の行進)。
1914年2月6日のことでした。約3万人の農民(保守・右派)が、宮殿(国王のいる所)へ向けて行進しました。彼らの後ろには、国防と戦艦建造の継続だけではなく、弱くなりつつあった王の権力を再び強め、民主化への改革を止めようとする保守派右翼の人々の存在もありました。
中庭演説(Borggårdstalet)
グスタフ5世は妻ヴィクトリアとともに、集結した農民たちに対する演説を準備・実行。
この演説(中庭演説)において、グスタフ5世はスウェーデン軍を「私の軍」と呼び、国防と、国王による政治的権力行使の必要性を表明しました。
これは、カール・スターフ首相や自由党政府の考えと真逆のもので、政府をおびやかすものでした。
保守派の農民たちはグスタフ5世の演説に拍手を送り、政府との対立姿勢をあらためて示しました。
一方で、政府を支持する人たちもまた数多く存在していたため、両者間の緊張は頂点に。
首相は国王に「政府の許可なく、政治的な見解を発表しないで欲しい」と言いましたが、国王は「王は国民たちに対して、自由に意見を述べる権利があるはずだ」と主張。
膠着状態となりましたが、当時国王には政府の任命権があったため、グスタフ5世はこれを実行。カール・スターフと政府の人々は退陣を余儀なくされ、新しい首相が任命されました。
戦艦の建造は続けられました。
第一次世界大戦下-食糧不足、様々な抗議活動
その後まもなく、第一次世界大戦が始まりました。
スウェーデンは戦争には参加していませんでしたが、それでも影響を受けました。
輸出も輸入も止まり、生活必需品を手に入れることができず、場所によっては深刻な食糧不足に陥りました。
人々は困り、公園で作物を育てる人も出てきました。
じゃがいも暴動
1917年の冬(1・2月)は一段と寒く、じゃがいもの収穫が遅れて(不足して)いました。
1917年6月、ストックホルムのセーデルマルム(Södermannagatan)にて、ある噂が流れました。
「ある商人がじゃがいもを手に入れた、けれどその商人はお金を余分に払ってくれる客にしかじゃがいもをゆずってくれない」というものです。
お金の無い人々は、これに対して大きく反応。その商人のもとへ押しかけ、抗議しました。
商人が噂の通りじゃがいもを隠し持っていることがわかると、暴動のような状態になり、警察が出動して人々を逮捕するまでに至りました。
逮捕された人々は高い罰金を課されました。
その他、様々な抗議活動
セーデルマルム(※当時は貧民街だった)での出来事は、スウェーデンで当時たくさん起きていた抗議活動のほんの一部でしかありませんでした。
スウェーデン中の100か所以上の場所で、25万人以上の人々がデモを行っていたと言われています。彼らは戦争への反対と、食糧と参政権の要求をしました。
一般市民と、警察と、軍が入り乱れました。
スウェーデンは分断されていました。
さきほども何度も出てきたように、国王をはじめとするナショナリズムと保守を訴える人々、リベラルな人々。さらにその中でも、労働者の権利を訴える人、女性の権利を訴える人…などなど、いくつもの集団ができていました。
その中には、国王の廃止と、共和制の導入を主張する改革派の人々もいました。
グスタフ5世の決断-国王の政治介入を今後行わないこと
国王の廃止を求める改革派の声は、日に日に強くなっていきました。
1918年頃、グスタフ5世は、度重なる抗議活動や、自由党の政治家ニルス・エデン(Nils Edén)、社会民主党党首ヤルマル・ブランティング(Hjalmar Branting)らをはじめとする人々の説得に応じました。
国王の政治的な権力の放棄を約束したのです。
同時に、彼は右派の人々に、社会改革(すべての成人に参政権を認めることなど)への反対をやめるよう呼びかけました。
国王は象徴としてのみ、残されました。
他のヨーロッパの国々でも、第一次世界大戦をきっかけに君主制が崩壊した国がいくつかありました。グスタフ5世の耳にもそのニュースはきっと届いていたことでしょう。
1920年代のスウェーデン-手探りの民主化、産業の発展⇔民衆の貧困
1920年代は新しい変化の時期となりました。
1921年、初の民主的な総選挙が行われました。男女ともに、同じ条件で参加できる選挙です。
1922年には、初の女性議員が5人誕生しました。
映画館では、ニュースを見たり世界各地の出来事を知ることができるようになりました。
手探りの民主化
また、民主主義が導入されましたが、こちらはまだまだ日が浅く、手探りの状態での民主化が行われていました。
たとえば、1921年~1932年の間に、政府は10回交代(※政権交代)しました。
産業界の発展⇔貧しい民衆…広がる貧富差
さらに、ボールベアリングや分離機といった画期的な発明や技術の発展により、産業界は急速に成長していた(こういった産業はsnilleindustrinと呼ばれた)一方で、民衆の貧困もまた広がっていました。
富裕層(資本家、雇用主など)と貧困層(労働者など)の差はより開き、それが国の成長をさまたげていました。
国民の大多数は貧しいままで、水準の低い住居に住んでおり、失業率も高く、約3分の1の男性が仕事を持っていませんでした。
賃金も引き下げられ、雇用主と雇用者との間にはすでに衝突が見られましたが、1929年のニューヨークの株式市場大暴落(世界恐慌)を皮切りに、そういった衝突は一層増えていきました。
そのまま1930年代が始まりました。
1930年代-労働紛争の激化、オーダーレンの悲劇
1931年、スウェーデン北部オンゲルマンランド地方(Ångermanland)の、オーダーレン(Ådalen)で起きた、ある悲劇的な出来事を見ていきます。
(※オーダーレンのイントネーションですが、オー・ダーレンという感じです(オーダー・レンではない))
その出来事の前に軽い前置きです。
この頃、村の集会所(Folket Hus※地域の集会所。現在もよく使われている)では、ダンスパーティーがよく開かれていました。
(※ここで番組で出てきたのはジャズ系の音楽のダンスパーティで、伝統音楽のダンスではありませんでしたが、これは当時伝統音楽がもうすでに新しい音楽に駆逐されかけていたことにちなんでいるのかもしれないし、単に番組の演出上の仕掛けかもしれません)
失業者はこういったダンスにたいてい無料で参加することができました。
当時の人口の約半分は、30歳以下の若者が占めており、ダンスは彼らの大きな娯楽でした。ダンス会場でパートナーと出会うこともありました。
このダンスパーティーにおいてトランペットを吹いている青年がいました。トーレ・アンダーション(Tore Andersson)です。
彼が、後に起こる悲劇的な出来事を食い止めるきっかけの1つとなります。
雇用主と雇用者間の対立
話を本筋に戻します。
当時、オーダーレンでは、製材所と製紙工場が勢いを増していました。
(※19世紀頃から、スウェーデン北部の森林の伐採・資源への活用が始まり、北部の海岸沿いの地域には製材所がたくさん建ちました→前々回の記事参照)
しかし、先ほども書いた通り、雇用主と雇用者の間にあった溝は深まるばかりで、彼らは互いに不信感を抱いていました。
(この頃のスウェーデンには世界的に見ても強い労働組合が多く、同時に雇用主側も強い存在だったため、両者のわだかまりは長期にわたって続きました)
1931年、ニューヨークの株式市場大暴落の影響から2年後。雇用主たちは「賃金の引き下げ」を行うことでなんとか損失を埋めようとしていました。
ストライキとスト破り→スト破りに対する反発
それに対し、オーダーレンの雇用者たちはストライキを実行。
すると、雇用者たちのストライキに対し、製品の生産を止めるわけにはいかない雇用主側は「スト破り」を行ったのです。
スト破りとは、ストライキの効果を減じる(=交渉に応じない)ために、代わりの労働者たち(Strejkbrytare=代替労働者、スト破りのための労働者)を雇い入れ、業務を続行しようとすることです。
(※スト破りについては、国によっても違法性の判断が分かれるそうですが、スト破りを継続し、団体交渉に応じないことは、争議権・団結権に対する侵害にあたる可能性があるそうです→Wikipedia「スト破り」)
代替労働者たちは、外の地域から雇い入れたプロの人たち(代替労働を専門とする集団)でした。
代替労働者となることは当時不名誉なこととして社会に認識されていたため、外から雇い入れる必要がありました。彼らのバックグラウンドは様々で、冒険家から貧困者、さらには思想的・信条的な理由で、代替労働者になる人も多くいました。
スト破りが実行された噂はたちまち広まりました。
オーダーレンの工場の1つでは、雇用者たちが集まり、工場内に乱入。代替労働者を5人とらえ、「二度と代替労働者として働かない」ということを誓わせました。
民衆のデモと軍の出動
しかし雇用者たちの訴えはそれだけでは終わりませんでした。
翌日(1931年5月14日)、雇用者たちの訴えに賛同する人々(男女、子ども)が数千人集まり、デモ行進をしました。
彼らが向かったのは、代替労働者たちの一時的な住居(テント)があったルンデ(Lunde)です。
軍が出動し、労働者たちを守るためではなく、制圧するための布陣が敷かれました。
武装した軍隊は労働者たちに止まるよう言いましたが、何キロメートルにもわたる列は止まることはなく、ある時、兵士の一人が銃を発砲。
それにつられるように他の兵士も発砲しました。
人々の混乱の中で、鳴り響いたのは、前置きで登場した青年トーレ・アンダーション(Tore Andersson)のトランペットです。彼は休戦(停戦)の合図をトランペットで奏で、それにより銃声が止まりました(人々は冷静になりました)。
発砲によって、5人(1人の女性と4人の男性)が亡くなり、大規模な葬儀が行われました。
トランペットの青年がいなかったら、もっと犠牲者は多かったかもしれません。
この出来事は、オーダーレンはもちろん、全国に衝撃を与えました。何十万人もの人々が、この出来事に対してさらにデモを行いました。
1938年サルトショーバード協定-労働問題解決に関する取り決め
こういった出来事を受け、政治的・階級的な様々な「分断」に疲れた人々は、特定の階層に偏った政治ではなく「あらゆる集団を包括する」ような政治をのぞみ始めました。
社会民主党も、労働者以外の層までを対象とした政治を目指すようになります。全ての人に共通する権利と、平等を目指すものです。
1932年、社会民主党は与党となりましたが、少数与党政権だったため、農民党(Bondeförbjundet)と手を組みました。初めて、労働者と農民たちが協力するように。
この協力関係が、より安定した政府の基盤を作りました。
社会民主党と農民党の協力体制はお互いにとっての「妥協」とも言えますが、こういった「妥協」が、その他の問題の解決の糸口にもなっていきました。
たとえば、労働組合と雇用主もまた、互いにたたかわない方法を模索し始めました。「たたかわない」ことが、お互いにとって利益が大きいということに気づいたからです。
1938年、労働組合(LO)と経営者連盟(SAF)によって、サルトショーバード協定(Saltsjöbadsavtalet)が締結されました。これは歴史的に重要な協定でした。
協定では、「労働市場における問題がどのように解決されるべきか」についてのルールが盛り込まれました。
たとえば、政府の不介入。組合と雇用主が労働問題について対処する際、政府や政党が介入すること無く、彼ら自身による自主的な解決が行われるようになりました。
労働紛争は結果的に減り、この協定は「スウェーデン・モデル」と呼ばれる基礎の一部を築きました。
これにより、ストライキは減り、産業界はより発展していきました。
次回、スウェーデンの貧困(「ヨーロッパいち貧しい国」から、どのようにして現在のような国になっていったのか)を見て行きます。
(※Wikipedia「Saltsjöbaden Agreement(英語)」)
ということで、グスタフ5世の演説から、労働問題が激化した1930年代までを見てきました。
次々回くらいでこのシリーズも終える予定です。長かったですね。
20世紀に入ると、現在と地続きの事柄がたくさん起きるので、言葉にするとちょっと繊細な問題も出てきて難しいなと思います。
そういえば、つい最近エストニアの旅行記を読んだのですが、エストニアの歴史の話の中にもスウェーデンが出てくる時代(中世の頃)があるんですよね。このシリーズを書き始めたことで、そういったバックグラウンドについても少しだけ理解が広がっている気がして、本を読んでいてもおもしろかったです。
ニッケルハルパと伝統音楽について知るために…と思って始めたこのシリーズ、だいぶ遠回りしましたが、「だいたいこの頃スウェーデンはこうだった」という知識を持って演奏家の年代を眺めてみると、それまでとは少し違う見え方がして、おもしろいなと思っています。
こういうものが色々混ざって巡り巡って、繋がるところが繋がっていくと、もっと深いところまで音楽をのぞけるかも…?と思っています。
では、また次回。
