ニッケルハルパについて知るために、スウェーデンの歴史をなんとなく学んでみよう~と思って気軽に始めたこちらの歴史の記事のシリーズです。
1カ月くらいで終わるかと思いきや、気づけばもう数カ月間続けています。
「気軽に始めて良いやつじゃなかったなあ」と毎日思っていますが、曲の話題でたびたび出てくる歴史上の偉人のことや、スウェーデンの歴史の概要を知ることができて、学びも多く、おもしろいです。おもしろさと大変さが半々くらいです。
さて、やっと1800年代まで来ました。ここからは国王メインの時系列を抜け、社会の様々な動きでもって時代を見て行きます。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)
・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)、⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)
・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展、⑳自由の時代の終わり(~1772年)出版の自由、党の対立、ベルマン、グスタフ3世、㉑グスタフ3世とその後(ユダヤ人の定住、当時の王室の様子、王の暗殺)(1772~1809年)
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
国王はカール14世ヨハンへ。
19世紀はじめ、対ロシア戦で敗れたことによりフィンランドを失ったばかりのスウェーデンは、揺れていました。
グスタフ3世が仮面舞踏会で暗殺され、その後国王となったグスタフ4世も逮捕・退位。カール13世が国王となりましたが、彼は即位当時すでに弱っており、新たな王が求められました。(Wikipedia「カール13世」)
そこで国王として選ばれたのが、フランスの元帥ジャン・バティスト・ベルナドット(Jean Baptiste Bernadotte, 1763-1844)でした。
当時のスウェーデンは、失ったばかりのフィンランド(フィンランドはすでに約700年間スウェーデン領だったため、「スウェーデン国の一部だ」という認識が強かった)を取り戻すべきだ、という声が強くなっており、戦争の経験が豊富なジャン・バティスト・ベルナドットを国王とすることで、人々はフィンランド奪還を期待したのです。
ベルナドットは王となり、カール14世ヨハン(Karl XIV Johan)と名乗りました。
しかし彼はフィンランドを取り戻す代わりに、当時数年間続いていたデンマークとの戦争に勝ち、条約を締結。
1814年、デンマークの一部であったノルウェーがスウェーデンへと割譲、彼はスウェーデン=ノルウェー両国の王となりました(スウェーデン=ノルウェーは同君連合となりました)
(その後1905年にノルウェーが完全独立します)。
当時、国王の権力は以前と比べて弱められ、政府と議会と権力を分かつ存在となっていました。
19世紀の社会では、国や社会を動かす存在はもはや国王ではなくなっていきました。
人々の生活
18世紀末、スウェーデンはヨーロッパの中でも最も貧しい国の1つで、産業革命の波はまだ到達していませんでした。
これが、19世紀になり変化を迎えます。
まず最初の変化は、世界初のワクチンの到来です。ワクチンの影響は大きく、多くの人の命が助かりました。
そして、農業にも変化が起きました。新しい道具の開発・研究に加え、農地改革により、それまで分散していた「小さないくつかの農地」が「大きな1つの農地」へとまとめられ、より効率的な農業が行われるようになりました。
結果、スウェーデンの人口は瞬く間に増加。様々な社会集団(社会階層)が生まれました。
貧困層も増加
ただし、人口の増加にともない、貧困層の人々の数も増加。
農地改革によって土地を失った人々も多くいました。
彼らは、せまく、衛生環境の良くない住居で生活しなくてはなりませんでした。飢えをしのぐため、子どもたちも働く必要がありました。
また、彼らは自身で土地を持っていなかった(農地改革で失った)ため、下男(dräng)やメイド(piga)として外に働きに出ていました。
務め先の農場や屋敷では、労働と生活の境目はありませんでした。労働時間を決めるのは、彼らの雇い主や、仕事内容(農業なのか、家事なのかなど)、そして季節など。
労働の対価として得られたのは、住む場所や食事です。
衣服に関しては、下男は勤め先で服をもらい、メイドは自分で服を縫うための布をもらいました。
さらに、契約期間の終わりになると、それまでの労働のほんの一部を、現金(給料)としてもらうことができました。
この頃はまだヒエラルキーが重要で、一番上に立つのは農場の主(農家の主人)であり、彼が妻や子どもたち、そして下男やメイド(=ヒエラルキーの一番下)に対して、責任を負う立場でした。
教会について―当時の教会の役割と、自由教会・リバイバル運動
教会の影響がまだ大きかった時代
当時、教会は、人々の日常生活にまだまだ大きな影響を及ぼしていました。
「キリスト教に関する知識を身につけること」が生活をしていくうえで重要で、たとえば移住や結婚する時には、「キリスト教の知識を持っていることを証明する書類」を見せる必要がありました。
人々の知識について、コントロールする権限があったのは、司祭(Präst)たちです。
彼らは家々を訪れ、面談し、人々の信仰の深度について調査しました。この面談には、家族全員が参加しなければいけませんでした。
教会のこういった活動のおかげで、スウェーデンの識字率は他のヨーロッパの国々と比較しても高かったようです。
教会による働きかけが、結果として、当時の人々にとっての「教育」の役割を担っていました。
自由教会のはじまり―「信仰は個人の意思によって行われるものだ」
1848年、スウェーデン南部、ハランド地方のヴァッレシュヴィーク(Vellersvik)にて、「自由教会(Frikyrka)」の集まりが行われました。これはスウェーデンで最初の自由教会の会衆でした。
自由教会の成立は、「自身の生活や信仰を教会に強制されるのではなく、自分たちの意志で選択したい」という人々の意志のあらわれでもありました。
(※自由教会の考え方自体は海外からもたらされました)
・フレドリック・オラウス・ニルソン
自由教会に深く関わっていた人物の一人が、フレドリック・オラウス・ニルソン(Fredlik Olaus Nilsson)です。彼は船乗りだったため、海外への旅を通じて、リバイバル運動(信仰復興運動、Väckelserörelsen)について知っており、彼がスウェーデンの自由教会の先駆者となりました。
リバイバルにおいて重要だとされたのは、信仰が社会や権力者から押し付けられたものではなく、「自らの意志によるもの(自由意志で選択されたもの)」であること。
この時点で、スウェーデンの宗教と社会において、「個人主義」の考え方が導入されていました。
(※リバイバル運動…当時の国教会による形式的な信仰から離れ、「信仰は個人の中から生まれるものだ」という考えから行われた信仰復興運動。自由教会の原点でもある)
・禁止されていた活動
ただし、教会の外でこういった宗教的な集まりを催すのは禁止されていたので、隠れて行われていました。もしもばれてしまった際には、重い罰則(高い罰金や職・家を失う)が設けられていました。
自由教会を支持することは、当時の社会の常識(国教会に絶対的な信仰を誓い、その規範から逸脱しないこと)に疑問を投げかける行為であり、多くの批判や誤解を招きました。
・民主的な考えによる会
さきほど登場したフレドリック・オラウス・ニルソンは、スウェーデンで最初のバプテスト会(※バプテスト=プロテスタントの教派)を開き、秘密裏に会員を集めました。
そこでは、誰もが平等でした。この会では、会員たちは話し合いにより物事を決め、身分や性別や年齢に関わらず、誰もが意見を投じる(投票する)権利があったため、「スウェーデンで最初の民主的な会(※förening=協会、組合など)」とも言えます。
スウェーデンの民主化は、このような形で、社会の下部から(人々の間から)徐々に行われていきました。
・ニルソンの追放と、リバイバル運動の広がり
ヴァッレシュヴィークの自由教会の集まりは、1年半の秘密の活動ののち、人々の知るところとなり、フレドリック・オラウス・ニルソンは「危険な思想を広めた存在」として流刑(追放刑)を言い渡されました。
しかし、人々は彼の後に続き、リバイバル運動は広がっていきます。
同時期に起きた他の大衆運動、たとえば「禁酒運動(Nykterhetsrörelsen)」などと合わさり、民主的な考えが人々の間に浸透。
これがのちに、「教育(学校の設置)」などにも影響を与えていきました。
※個人的な補足
※補足1:リバイバル運動(Väckelserörelsen)について
リバイバルは伝統音楽の話題だとよく出てきますが、悪い意味の文脈で使われることが多いので、私は「リバイバル=あまり良くないもの」と思っていたところがありました。
(悪い文脈というのは、たとえばリバイバル運動で過剰に盛り上がった人たちが、「楽器は悪魔の道具だ」と言って、楽器狩りのようなことをした、伝統音楽の演奏家が追いやられた、など)
が、スウェーデンのリバイバル運動自体は、上記の通り、「個人と信仰との繋がりを取り戻す(=信仰は上からの強要ではなく、個人の自由意志であるという考え)」であり、それに伴う自由教会普及の流れ…という風に解釈できるのかなと思っていて、それが民主化の動きに繋がっていったのだ、というのが今回わかったような気がします。
(伝統音楽の話題で出てくる例は、その動きの中でも、特に行き過ぎた運動にあたるのかもしれないと思いました)
★伝統音楽とリバイバルの関係性が出てくる過去記事↓
Hultkläppen(フルトクレッペン)について【ヘルシングランド地方北部のフィドル奏者】
※補足2:スウェーデンの「Präst」→「司祭/牧師」の書き分けについて
スウェーデン語の「Präst」という単語ですが、調べると「司祭(神父)」「牧師」の両方の意味が出てきます。
ここまでの記事をお読みの方はお気づきかもしれませんが、私、今までずっと「Präst」を「司祭」と訳して書いてきました。でも、よく考えたら「カトリックは司祭、プロテスタントは牧師」という呼び分けがあったような…?と思いまして。
スウェーデンも途中からプロテスタント国だったので、途中から「牧師」にした方が良かったのかな…?と。
で、調べてみたのですが、スウェーデン語でも「Präst」「Pastor」という単語があり、Präst=Priest(英語)、Pastor=Pastor(英語)なのかな、と。
そして、スウェーデンの場合は、スウェーデン教会(国教会)の聖職者(→身分)の場合は「Präst」、自由教会などの会合で仕切る役割の人(→立場)は「Pator」という言い方で呼び分けているような気がする(違ったらすみません)ので、とりあえず今までの記事(Präst)の分は、全て「司祭」のままでいくことにしました。
(「司祭」は、聖職者としての身分的な意味合いが強く、「牧師」は身分としては人々と対等だけれども教え導く立場の人、というニュアンスが強いのかな?と解釈しています)
間違っているかもしれませんが、とりあえず…
産業化
19世紀半ば、産業化の波が徐々にスウェーデンへと押し寄せました。
鉄道/線路
たとえば鉄道(Järnväg)。
19世紀後半には線路の敷設が進みました。鉄道は、最初は産業用(資材の運送のため)に作られましたが、結果として「様々な都市の開発、郊外の開発」が進み、「労働(雇用)の機会」を増やすことにもつながりました。
鉄道の影響①都市へ向かう人々(人の移動)
当時、雇われる側の人々(さきほどのメイドのように、自身で土地や財産を持たない人々)にとって、田舎/地方での暮らし(ずっと他人に雇われながら暮らす生活)には不安も多かったため、「新しい仕事」と「より良い暮らし」を求め、田舎を捨て、都市部へと向かう人たちもいました。
それまで馬車で移動するしかなかった人々にとって、鉄道は画期的なものでした。
鉄道の影響②標準時間の導入
さらに、鉄道にともなって必要とされたのが「標準時間」です。
それまでは、太陽の動きに合わせた時間(場所によって異なる時間)を使っていましたが、いくつかの都市を移動する鉄道を使うにあたり、複数都市間での時間の統一が必要になりました。
最初はヨーテボリの時間が採用されましたが、「ストックホルムの時間とあまりに異なる」ということで、最終的には中間地点のオーレブロー(Örebro)の時間が採用されたようです。
事業の自由、写真、中産階級の登場
スウェーデンは農業の国から産業の国へ。
労働者の人口が増えていきました。
これまで、都市部は交易と流通の場でありながら、人々が従事できる仕事には厳しい制限がありましたが、19世紀(19世紀半ば~後半)には「事業の自由(Näringsfrihet)」が導入されました。
資本を持つ人は自由に事業を始めることができるようになり、新しい事業が次々に始められました。
また、「写真(Fotografiet)」の技術がスウェーデンにやってきたため、人々は自身の新しい生活や事業の様子を写真に残しました。
中産階級(中流階級)の人々も増えました。弁護士、医者、ジャーナリスト。こういった人々の存在が、スウェーデン社会の民主化を後押ししました。
ノルランドの森林が輸出されるように→裕福な資本家とリベラルな考え
さらに、ノルランド(=スウェーデン北部の地域)の森林にも変化が起きていました。
北部の森林は、長い間、資源として使われることなく存在していましたが、鉄道、事業の自由の影響により、木材として大量に輸出されるようになりました。
これにより、北部地域の産業化が加速。
ノルランドの海岸沿いには新しい製材所(Sågverk)が建設され、多くの人が北部へと移り住みました。
木材の輸出により、資本家たちはお金をたくさん稼ぐことができ、その経済的な豊かさと自由さから、リベラルな考えを持つ人が増えていきました。
学校の創設
議会でも、リベラル派と保守派が対立しましたが、時に協力して様々な改革が行われました。
その1つが、「すべての子ども(階級や身分に関わらず)が通える学校(Folkskolor)」の設置です。
これは1842年にはすでに行われ始めていました。
リベラル派の人々は、子どもに「教育の機会」を与えるために学校設置に賛成。
また、保守派の人々もまた学校の設置に賛成でしたが、こちらはむしろ「貧困層の人々の、生活の不安を鎮めたい(コントロールしたい、反乱を防ぎたい)」という目的が強かったようです。
この「学校(Folkskolor)」に関する改革が、社会で非常に重要な役割を果たすことになります。
これまでの、教会による(ある意味独占的な)教育の提供は徐々に終わり、知識や教育に関する新しい見方がされるように。
聖職者(司祭)の役割は教師へ引き継がれました。
次回、この「学校」の部分をもう少し掘り下げながら続けて書いていきたいと思います。
19世紀の話題は、これまで伝統音楽の演奏家たちの話題で出てきたトピックがたくさん出てきましたね。
リバイバルの話もそうですし、ノルランドの森林の話(北部に出稼ぎに行く演奏家の話が以前出てきました)とかもそうです。
18世紀と19世紀ではかなり歴史や社会の印象が異なるような気がするのですが、それだけ現在に近い出来事が19世紀にたくさん起きている、ということなのでしょうか。
では、次回は19世紀の続きから見て行きます。
