終わりが見えてきたら、一気に元気になってきました。
スウェーデンの歴史のシリーズです。
前回、19世紀の学校法(小学校の義務教育が始まった)の話で終わってしまったので、その続きからです。
今回は19世紀後半のスウェーデン社会について。
アメリカ移住ブーム、工場での労働と労働災害、労働運動、女性の権利・参政権運動、そして20世紀に入ってからのナショナリズムの高まりまでを見て行きます。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)
・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)、⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)
・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展、⑳自由の時代の終わり(~1772年)出版の自由、党の対立、ベルマン、グスタフ3世、㉑グスタフ3世とその後(ユダヤ人の定住、当時の王室の様子、王の暗殺)(1772~1809年)、
・近代国家スウェーデンへ→㉒自由教会とリバイバル運動、産業化、学校の設置(19世紀前半)
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
記事の数が多くなってしまって大変申し訳なく思っていますが、ここまできたら気にせず、終わりまで駆け抜けたいと思います。
1842年、学校法で義務教育が制度化される
1842年、学校法により、学校(Folkskolor=今で言う小学校にあたる。この時は4年生まで)の設置が決定され、義務教育が始まりました。
義務教育に対しては、「家での大事な労働力である彼らが、なぜ学校などに通って時間を無駄にしなければいけないのか?」と、反対意見を持つ親も多かったそうです。
(※その後、1858年に就学開始年齢が7歳へ。1882年に5・6年生が追加されたそうです。詳しくは→Wikipedia「スウェーデンの教育」のスウェーデン教育史の項目へ)
学校での言語―少数言語話者はスウェーデン語強制へ
学校での言語について。
たとえばトルネダーレン(Tornedalen=スウェーデンの最北部トルネ谷)では、子どもたちはもともと「メアンキエリ」と呼ばれる方言を使って話していました。
(メアンキエリは、主に現在のフィンランド語の影響を受けた方言ですが、スウェーデン語の影響も受けている、と番組では説明されていました。Wikipedia「メアンキエリ」)
トルネダーレンに初めて学校ができたのは1850年代頃。
当初は学校の授業でもメアンキエリが使われていましたが、徐々に「使用許可言語はスウェーデン語のみ(メアンキエリ禁止)」となっていきました。
トルネダーレンに限らず、多くの学校(Folkskolor)で、同様のこと(スウェーデン語以外の使用は禁止)が一般化していきました。
この背景には、当時増加していた差別的な考えや、ナショナリズムの高揚、政治的意図などが挙げられます。
メアンキエリに限らず、サーミ語などの少数言語は追いやられ、そういった言語を母語に持つ子どもたちは、スウェーデン語を強要されることとなりました。
1867年、厳しい寒波と飢え
1867年、それまでの300年間の中でも一段と厳しい冬の気候が、スウェーデンをおそいました。
ヴェステルボッテン地方(Västerbotten)の飢え
最もひどい被害を受けたのは北部のヴェステルボッテン地方(Västerbotten)です。
作物は全く収穫できず、絶望的な飢えが人々をおそい、一説には、「たんぱく質を得るために人々は靴(革靴)をも茹でた」とも言われています。
他にも、樹皮やわらをパンに混ぜたり、草や苔をスープ(お湯に入れる)にしたり、動物の皮をこすって抜け落ちた毛から栄養をとろうとしました。
困窮者への人道支援の制度が無かった
人々は国に助けを求めましたが、ヴェステルボッテン地方をはじめ、ノルランド(スウェーデン北部の総称)はまだまだ孤立しており、その願いが聞き入れられることは難しかったのです。
(※鉄道の敷設もまだ中途半端であり、寒波の影響で、船を出すのも難しかった)
また、当時はまだ「飢えに対処できるような人道支援の制度」が整っていませんでした。
たとえばお金が一時的に足りない人たちには、お金を貸しつけ、後で返済させるといった制度がありましたが、それもあくまでも「後で返済可能な人々」への支援であり、すべての生活困窮者に対する人道支援の制度ではありませんでした。
その後、スウェーデン南部も、北部と同じ状況に見舞われました。
寒波は約2年間続きました。栄養不足と病気により、数千人の命が失われました。
アメリカへの移住ブーム
こういった状況から、一部の人々は「スウェーデンでのより良い暮らし」ではなく、「新天地」へと目を向けることとなりました。
アメリカへの移住です。
アメリカへ行く場合、多くの人が利用したのがヨーテボリの港でした。その際、人々が立ち寄ったのがSillgatan(シルガータン。現在のPostgatan)周辺地域です。
(※Sillgatan=ニシンの酢漬け通り)
人々はSillgatan周辺で、旅のために必要な物資を買い求めました。通りは商人や旅人であふれ、音楽家が演奏をし、バーは人でにぎわっていました。
たとえば1869年の1年間だけでも、約1万人以上のスウェーデン人がアメリカへと旅立った、という記録もあります。
アメリカでは、人々は一部の土地を無料で手に入れることもできたため、それが移住者たちには魅力的に見えたそうです。彼らはアメリカに渡ったあと、様々な仕事につきました。多くの人は都市部へ腰を落ち着け、スウェーデンよりも良い条件で働きました。
アメリカへの切符は非常に高価でしたが、すでにアメリカに移住している友達や親戚を通じて、現地で多めに購入した前売り切符を複数人分まとめて送ってもらうことで、安く済ませることができたそうです。
20世紀始め頃には、120万人もの人々がアメリカへ移住していて、これは当時のスウェーデンの人口の約5分の1に当たる人数でした。
工場での労働と労働災害
しかし、その他の人々はスウェーデンに残りました。
彼らのうち多くは都市部に移り住み、当時急速に伸びた産業での仕事や、大量に建てられた工場(たとえばマッチ工場など)で働きました。
都市部での暮らしは、彼ら(より良い暮らしを求めて地方から移住してきた人々)が想像していたような夢のある暮らしではなく、長時間の労働と少ない休み、低い賃金による生活でした。
子どもの労働
たとえばヨンショーピンの、あるマッチ工場をのぞいてみましょう。
マッチ工場では、子どもたちが働くことも珍しくありませんでした。彼らは手が小さいので手先を使う仕事に向いており、大人よりも低い賃金で雇うことができたため、勤務者の約半数が子ども、ということもありました。
当時の労働法では、子どもが働けるのは10~14歳くらいである必要がありましたが、実際には7~8歳の子どもも働いていたことが、記録からわかります。
労働災害―マッチ工場のリン性壊死
マッチ工場で働く人の中には、病気になる人がいました。
当初、原因は「湖からの冷たい風によるものだ」と考えられていましたが、病人の数が徐々に増え始めたことで、事態がより深刻であると人々は気づき始めます。
原因はリン(適切な防護措置がされていないリン)でした。
この病気は「リン中毒性顎骨壊死」と呼ばれるもので、あご(特に下あごの辺り)が壊死する病気でした。
(※詳しくは→Wikipedia「リン中毒性顎骨壊死」)
労働運動
労働者階級は、日に日に増えていきました。
彼らは、社会に対して自分たちの意見をより強く主張し始めました。
過酷な労働環境や不当な労働条件に対する彼らの訴えは、社会主義的な当時の風潮(平等性や権利をうたうもの)と合わさり、徐々に組織化された運動(=労働運動)へと変わっていきました。
1879年ースンズヴァルにて、スウェーデン初のストライキ
1879年、スンズヴァルでストライキが行われました(Sundsvallsstrejken)。
初めての労働運動(ストライキ)です。
当時、雇用主側は、すでに飢えに近い状態で働いていた雇用者たちの給料をさらに下げようとしていたので、それに対する抗議として行われました。
約5000人の男性がスンズヴァルの通りを行進しましたが、これは組織的に計画されたものではなく(労働組合が背後にいたわけではなく)、突発的に(おのおのによって自主的に)行われたものだと見られています。
ストライキは8日間ほど続けられ、最終的に雇用主側が軍を要請。雇用主は「これ以上ストライキを続ければ、家から立ち退かせ、逮捕させる」と言い渡し、彼らを強制的に労働へと戻らせました。
この時のストライキは労働者たちにとって不当な結果となりましたが、これが社会に火をつけ、次第に多くの労働組合が作られていきました。
アウグスト・パルムによる演説や労働運動
アウグスト・パルム(August Palm)は、スウェーデンの労働運動において先導的な役割を担った人物です。
彼はドイツに滞在していましたが、社会主義を強く支持したことで法に違反し、ドイツから追放され、故郷スウェーデンに戻ってきました。
彼は、例えば新聞「Social-Demokraten(※社会民主党新聞)」の創刊に関わりました(1885年)。誌面を通じて、彼は「労働者たちが投票権とより良い労働環境を得るために、労働組合を作るべきだ」と主張しました。
(※Wikipedia「Social-Demokraten」(英語))
時代は、まさに最初の労働組合が少しずつでき始めていた頃。時流に合ったパルムの主張は人々に受け入れられ、彼の活動だけでなく、多くの新聞やパンフレットが刷られるようになりました。
鉄道の影響もあり、そういった主張は徐々に地方まで届くようになりました。ほんの数十年前までは想像もできないほど急速に、情報があらゆる場所へと広がっていきました。
アウグスト・パルムはスウェーデン中を旅して、どこでも積極的に活動(演説やデモなど)をしました。工場付近でも、公園でも、住宅地でも。彼は非常にユーモアがあり、人々を惹きつける魅力があったそうです。
彼の演説を聞きに行くことは、人々にとってリスクをともなう行為でした。彼に対して拍手をすれば罰金、扇動的な行動をしたとみなされれば、逮捕される可能性がありました。
こういった活動は、国の安全性を脅かす存在だとみなされていたからです。
労働者たちの集まりは、現在で言うSäpo(=スウェーデンの警察組織の一部。対テロ・スパイ対策を行う)のような私服警察官によって、ある種探偵のように、監視されていました。
この警察官たちは速記の講習を受けており、演説や会合で話された言葉を記録。逮捕につながるような証拠を集めていたそうです。
アウグスト・パルムを始め、労働運動のリーダーたちの多くは、国家・政府・国王を中傷したといった罪により、たびたび刑務所に入れられましたが、運動は広がっていきました。
1889年には、社会民主党が結成されました。
女性の権利
社会民主党結党の23年前、すでにスウェーデンでは民主化の動きが一歩先に進んでいました。
1866年、スウェーデンの議会はそれまでの階級制(=4つの身分の代表によって議会が行われていた)が廃止され、二院制に。中でも、第二院は普通選挙によって代表が選出されることになりました。
が、投票権があったのはまだ、ごく一部の富裕層の男性のみでした。
女性の場合は、財産の多さに関わらず投票権はありませんでした。
「女性は男性に比べて感情的になりすぎる。頭ではなく心で決めてしまう」と一般的にみなされていたからです。
→フレデリカ・ブレーメルの小説『ハルタ』-女性の「成年者としての権利」を主張
しかし、19世紀終わり頃になると、女性の政治参加の権利を主張する声が高まっていきました。
こういった考えを広めるのに一役買ったのが、文学です。
1856年に発表されたフレデリカ・ブレーメル(Fredrika Bremer)の小説『ハルタ(Hertha)』は女性の権利に関する議論において、重要な役割を果たしました。
この小説は、フェミニストのマニフェストとも読める本でした。
フレデリカ・ブレーメルはスウェーデン国内だけでなく、海外でも有名な小説家でした。裕福で高貴な家柄に生まれ、厳格な両親のもとで育ちました。
彼女は成長していく中で、社会における男女の差(男性には可能性があり、女性は制限されていた)を感じていたそうです。
というのも、19世紀の女性たちには「成人としての権利」がありませんでした。
彼女たちに唯一(成年者として)権利が認められるのは、既婚女性の夫が亡くなった後(未亡人になった場合)だけであり、そうでなければ子ども(未成年者)と変わらない扱いでした。
既婚女性の場合、選択決定権は夫にあり、未婚女性の場合(たとえ成人していても)、選択決定権は父もしくは男兄弟にのみ認められていました。
『ハルタ』が発表された後、1858年、議会は25歳以上の未婚女性に対し、成人としての手続きを行う権利を認めました。
※『ハルタ』の紹介(Wikipediaからの引用)
1856年、フレデリカ・ブレーメルはメッセージ性の強い小説(idéromanen)『ハルタ(Hertha)』、副題『魂の物語(En själs historia)、現実生活のスケッチ(teckning ur det verkliga livet)』を発行した。
これは、女性が成年者と認められる重要性を扱った作品。主人公ハルタ(Hertha)は両親に反抗し、契約結婚から逃れようとする人物である。
※斜字はWikipedia「フレデリカ・ブレーメル」より引用
→女性団体(婦人協会)
『ハルタ』の影響もあり、未婚女性(25歳以上)には成年者としての権利(申請する権利)が認められたものの、既婚女性には、依然として権利が認められていませんでした。
また、成年者として認められていてもなお、女性はまだ決定権を握る立場にはなく、政治的な参加も認められていませんでした。
そこで作られたのが、いくつかの女性団体(kvinnoföreningar、婦人協会)です。女性団体には、階級に関わらず様々な女性たちが参加。
彼女たちは女性の政治参加に対して議論するだけでなく、海外の様々な話題や、音楽鑑賞、そして、アンデルセンといった有名な著作の読み聞かせ(音読の読書会)などを行いました。
(※アンデルセン…童話を書いたアンデルセン(H.C.Andersen)のことです)
彼女たちは、こういった文化的な知識や体験の享受(広い見聞、文学や音楽など)が、のちの社会変革につながるものであり、(高貴な身分の女性たちだけでなく)労働者階級の女性たちにとっても非常に重要になるだろう、と考えました。
そのうえで、彼女たちは政治参加や民主化についての基本的な知識を学び、共有し、理解を深めました。
LKPR(女性の参政権のための全国組合)
こういった女性団体は、20世紀初め、女性の参政権獲得のための全国的な組織「LKPR」としてまとまっていきました。
LKPRとは、「Landsföreningen för kvinnans politiska rösträtt(=女性の参政権のための全国組合)」の頭文字をとったものです
LKPRに参加していた女性たちは、支持する政党や派閥はバラバラ。保守派からリベラル派、社会民主派まで。さらに、都市部に住む人から地方に住む人まで、全国的に様々な人が参加しましたが、皆、「女性の参政権獲得」というただ1つの目的を共有していました。
パンフレットや記事の執筆、署名活動、国中をまわる講演会などが行われました。
参政権は、市民(国民)の権利の象徴としてみなされ、「すべての人に平等に与えられるべきだ」という考えが社会に浸透していきました。
20世紀へ
20世紀に入ると、ビデオカメラを使った動画の保存(動画による記録)が一般的になりました。
参政権運動なども、こうした動画に残されています。
多くの人が、裕福でない男性の参政権や、女性に対する参政権を認めるよう主張するようになりました。
1909年、健康で収入のある24歳以上のすべての男性に参政権が認められました。しかし、女性の参政権はまだでした。
スウェーデンが現代的な民主国家となるには、まだ少し時間が必要でした。
ナショナリズムの高まりとグスタフ5世
24歳以上の男性の参政権が認められたちょうどその頃(20世紀初め)、スウェーデンではナショナリズムが再び高まっていました。
保守的な右派が力を持ってきており、彼らは「伝統的社会の変化」に対して強く反発しました。
この時、国王だったのはグスタフ5世です。彼は「保守派の象徴」でした。
国王としての彼自身の権力はそれほど強くはありませんでしたが(グスタフ4世以降、国王の権力は制限されていたため)、保守派のシンボルとしての彼の影響力は絶大でした。
グスタフ5世が話を始めると、伝統主義者たちは熱心に話を聴きました。
この流れが、右派/左派の対立の激化を招き、さらに1914年冬のある大きな出来事へと繋がっていくのです。
次回はこの続きから見て行きます。
1914年というと第一次世界大戦開始の年ですが、スウェーデンは19世紀の戦争以降は、現在に至るまで戦争には参加していません(中立国でした)。
なので、第一次世界大戦にも(積極的には)参加していません。
ただ、第一次世界大戦がらみの大きな出来事が、1914年にスウェーデン国内で起きたそうです。
この辺になってくると、一気にきなくさい話になってきますが、番組で紹介されていることを要約しながら地道に書いていきたいと思います。あと3~4回の記事で終わる予定です。
では、また次回。
