Ole Hjorthをしのぶコンサートの和訳⑦です。
①~⑥まではこちら↓
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳①
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳②
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳③
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳④
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳⑤
Konsert till Ole Hjorths minne(Bror Hjorths Hus, 2022)の和訳⑥
動画
前回の続き(50:25~)からの再生です。
Joel:Hjort Andersをはじめとして、Viksta-Lasse、Pål Olleなど、Oleが目標(理想、模範、手本)としていた演奏家たちの話が出ましたが、もう1人います。
その人はここに立っています。Olle Falk(オッレ・ファルク)です。
(※Joelの後ろに描かれている、青い靴下と黄色いズボンが見えている人物がOlle Falk)
私は今フィドルの低音弦をGからAに「上げて」チューニングしてあります。
ただし、Olleはこれを「音を上げてチューニングしている」とは言いませんでしたが。彼にとってはこちらの方が「通常の(普通の)チューニング」でしたので。
そして、3曲だけ、「あえて下にチューニングしたG」で弾いていました。
(笑いが起きる)
(※通常はGのチューニングなので、Aに上げる時だけ「音を上げてチューニングしている」と言うのですが、Olle FalkにとってはAが通常だったので、Gにする時だけ「下げてチューニングしている」と言っていた)
Olle FalkはJämtland(イェムトランド地方)のOfferdal(オッフェダール)出身で、Lapp-Nils(ラップニルス※とても有名な昔の演奏家)の伝統を伝えている人です。
彼は「芸術的なソロの演奏」をする代表的な偉大な演奏家の1人でした。
Jonnyが「Ole Hjorthはバイクに乗って、各地の演奏家の演奏を録音してまわっていた」と言っていましたが、OleはOlle Falkのもとへも○○を持って(※聴き取れず。何か重い荷物?)電車に乗っていき、録音し、それを引きずって持ち帰ってきた後で、医者に行くことになったそうです。
背中を診てもらいに。
(笑いが起きる)
このコンサートの曲目に、Olle Falkの曲もぜひ入れた方が良いなと私は思いました。これまでは、主にHjort AndersやViksta-Lasseの曲を演奏してきましたが。
では、「Lapp-Nils polska efter Olle Falk, efter Ole Hjorth(オッレ・ファルク伝承のラップ・ニルスのポルスカ。オーレ・ヨットから教わったもの)」を演奏します。
(※チューニングをした後、Olle Falk(の絵)を見上げてから弾き始める)
⑪(52:43~)Lapp-Nils polska efter Olle Falk, efter Ole Hjorth(オッレ・ファルク伝承のラップ・ニルスのポルスカ。オーレ・ヨットから教わったもの)
(55:38~)
Joel:Oleは、そんなにたくさんの枚数ではありませんが、CDプロデューサーでもありました。
あるCDはこちらのアトリエで録音されたもので、Viksta-Lasseが演奏しています。
その日はちょうど今日のように、こちらのアトリエでコンサートが開かれていて、Viksta-Lasseが演奏していました。
コンサートが終わった後、コンサートはもう終わっているのですが、そこで、演奏に熱が入ってきたようなんです(コンサートを経て、演奏が盛り上がってきた)。
そこでViksta-Lasseがある曲を演奏しましたが、Oleはその曲が何の曲かわからなかった(聞いたことの無いメロディだった)ので、「それは何という曲ですか?」と訊ねたところ、
私たちの友であるBosse Larsson(ボッセ・ラーション※フィドルの演奏家)、彼も最近亡くなりましたが、彼もまたその場に居たそうで、Bosseがこう言ったそうです。
「彼(Viksta-Lasse)が今作った曲だよ」と。
(笑いが起きる)
そして、Oleはその曲をとても気に入ったので、Viksta-LasseはOleにその曲をあげたそうなんです。
残念ながら、曲の全体は「ぽっ」と一度に(突発的に)演奏されただけなので、彼(Ole?)は記憶が不確かで、一か所間違って演奏している所があるかもしれないそうです。
この曲はCDにも収録されていません。
Viksta-Lasseはいつもそんな感じで、空中に浮かぶメロディを「ああ、これは良いメロディだ」と掴んで(その場で即興的に)演奏していたそうです。
そんな風にして、Oleがもらったポルスカです。
このアトリエで作られた曲で、「Polska för Ole Hjorth(オーレ・ヨットのためのポルスカ)」です。
※この曲はMaskinの訳でもエピソードが出てきました。そちらのエピソードとこちらの話で微妙に(本当にちょっとだけ)違う部分もあるのですが、両方ともOleやBosseなど本人達から聞いた話だと思うので、そのまま載せます。Maskinの方の訳はこちら→「Maskin」のコンサート日本語訳②
⑫(57:42~)”Polska för Ole Hjorth”(オーレ・ヨットのためのポルスカ)
※Maskinの演奏以外にも、こちらの訳で同じ曲の演奏が出てきました。演奏者はハーモニカのHåkan Larssonです→Bosse Larssons minneskonsert (2022.11) の和訳⑫。
(59:49~)
Joel:ありがとうございます。
十代の終わり頃、私はOleの音楽をたくさん聴いていました。
Oleの演奏、Oleの音楽が大好きだったんです。
それで、JonnyやSvenとまさに同じように私はフィドルの先生を必要としていて(笑)
(笑いが起きる)
私はOleに電話をしました。
彼は最初はしぶっていましたが、Jonnyほどの激しいたたかいが繰り広げられたわけではなくて(※和訳②参照)、
「そのうち来てもいいよ」と言われました。
それから私たちはお互いを知り、同意に至り、彼のレッスンを受けることになりました。
レッスンを受けて1年半くらい経った頃、彼はこう言いました。
「これ以上は君にレッスンはしようとは思わない。その代わり、これからも変わらずここに来続けて欲しい、私と一緒に演奏しよう」と。
私は生徒から演奏仲間へと移行したのですが、相変わらず、彼の広大なレパートリー曲などを学び続けました。
私たちの間には、人間的な、そして音楽的な面でも友情が育っていたと思います。
色々なところへ行って一緒に演奏をしました。
いつも感じていたのは、Oleはvisor(ヴィーソル。歌のこと※ただの歌というより、より伝統音楽的な素朴な歌)に大きな愛情を持っているということでした。
年月が経つほど…、
彼が年をとり、フィドルの技術は以前のものとは変わってしまっていても、彼の表現は以前と同じように力強いものでした。
なんというか…desperat(デスパレート。鬱々とした、絶望的な/ワイルドな、危険な、激しい)、というのでしょうか(笑)
(※desperatの訳はいくつか違うものを書いたのでよくわからないかもしれないのですが…イメージとして伝わればと思います)
速いテンポのダンス曲を弾くのは難しくなっていましたが、その分、visorなどをよく一緒に弾いていました。
彼が最も得意とした曲の一つが、彼が生涯かけてずっと演奏したきたソロの曲でもあり、また私たちが一緒に演奏した曲でもあり、Svenも一緒に演奏していると思うのですが、「Svärdsjövisan(スヴェードフェーヴィーサン)」です。
この曲をOleが演奏するのを聴くたび、私はとても神聖な瞬間だと感じるのです。
私が最後にOleと会った時も、この曲を弾きました。
その時が、私がOleと一緒に弾いた最後の機会であり、Oleが彼の生涯でフィドルを手にした最後の機会でもありました。
私のパートはこの曲で終わりにしたいと思います。
「Svärdsjövisan efter Hjort Anders, efter Ole Hjorth(ヨット・アンダーシュ伝承のスヴェードフェーヴィーサン。Ole Hjorthから教わったもの)」です。
ありがとうございました。
⑬(1:03:56~)Svärdsjövisan efter Hjort Anders, efter Ole Hjorth(ヨット・アンダーシュ伝承のスヴェードフェーヴィーサン。Ole Hjorthから教わったもの)
(続きは明日)
Ole Hjorthに加えてPål Olleが出てきて、さらにOlle Falkが出てきたのでOleとOlleだらけになりました。
そしてJoelの話は、訳しながらぐっときました…。
Joelのことはあまりよく知らなかったのですが(名前や顔は知っていたのですが)、Ole Hjorthと本当によく一緒に演奏していたんだな、というのがとてもよく伝わってきました。
SvenやJonnyとはまた全然違う話と選曲と演奏で、良いなと思いました。
次回でこのコンサートの訳は終わりです。
お読みいただき、ありがとうございました。