歴史の記事です。
前回は「自由の時代」の終わり頃まで見ました。ハッタナ党とメッソナ党の対立、出版の自由に関する法律、宮廷詩人ベルマンと人々のお酒事情、そしてグスタフ3世の国王即位などでしたね。
今回はグスタフ3世の治世とその後を見て行きます。
彼の時代で、国王による専制政治が終わりを迎えるかと思います。では、いってみましょう。
★前回までの内容↓
・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行、⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)、⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)
・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)、⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)、⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)、⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)
・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)、⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)、⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)
・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)、⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)、⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)、⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)、⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)
・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展、⑳自由の時代の終わり(~1772年)出版の自由、党の対立、ベルマン、グスタフ3世
※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。
グスタフ3世の治世
演劇・文学への興味
グスタフ3世は若くモダンな国王で、芸術や小説などに興味を示し、スウェーデンのオペラや演劇、文学の発展に大きな影響を与えました。
たとえば、スウェーデン・アカデミー(Svenska Akademien)の創設や、王立ドラマ劇場(Dramaten。通称ドラマーテン)の建築など。
(※スウェーデン・アカデミー…1786年、フランスの学士院にならい作られた、スウェーデン語やスウェーデンの文芸に関わるの学術団体(国立アカデミー)。今はノーベル文学賞の選考委員会も兼ねている団体。Wikipedia「スウェーデン・アカデミー」)
こういった活動の背景には、グスタフ3世が芸術や文化に興味を持っていただけではなく、政治的な意図もあった(=グスタフ3世を称えるためにこういった団体や建物が作られた)だろうと言われます。
また、彼は、自身の治世以前に決められた様々な改革(メッソナ党による改革など)を取り消した一方で、「自由の時代」を象徴するような改革を、自身で実行した人でもありました。
たとえば、「拷問の禁止」。
さらに、ある種の「信教の自由」に似たものを、いち早く導入しました。
ユダヤ人の定住です
1775年、ユダヤ人のスウェーデン定住が制限付きで認められる
1775年、スウェーデンで初めて、ユダヤ人の定住(※キリスト教に改宗することなく定住できる)が認められました。
ストックホルムには、シナゴーグ(=ユダヤ教の礼拝などが行われる会堂)も作られました。
この政策の背景には、「信教の自由を認めるべきだ」という啓蒙的な思想があった…というよりはむしろ、ユダヤ人たちのもたらす「知識、ネットワーク、資本」が目当てでした。
ただし、彼らの定住には条件がありました。約2000クローナ(今で言う約800,000クローナ=約1300万円)の支払いによって得られる手紙(許可書のようなもの)が必要だったのです。
つまり、スウェーデンに住むことができたのは、一部の特権的なユダヤ人にすぎませんでした。
また、もとから住んでいたスウェーデン人の中には、「ユダヤ人たちに自分たちの仕事が奪われるのではないか」と怖れる者がいたため、定住が認められた数年後には、ユダヤ人たちの自由はより制限されることとなります。
1782年のユダヤ人に関する法律では、彼らの住む場所や職業に関する制限、さらに「非ユダヤ人とは結婚してはいけないこと」、「裁判での証言などを行うことができないこと」などが制定されました。
さらに、すでに定着しているような手工業に関わることも禁止され、結果として、ユダヤ人たちは、主に布製品などの「交易」を中心とした仕事をするようになりました。
グスタフ3世の周りの人々
グスタフ3世の周囲の人物について、少しご紹介します。
グスタフ3世と彼の周りの人々は、イタリアやフランスへ旅をし、芸術作品をスウェーデンへ持ち帰り、招待客たちに披露していました。
①ヘドヴィグ・エリサベト・シャルロッタ
その招待客の一人が、ヘドヴィグ・エリサベト・シャルロッタ(Hedvig Elisabet Charlotta, 1759-1818)です。
(※Wikipediaだと「ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ」という長い名前です)
彼女はグスタフ3世の弟の結婚相手ですが、権力者の身内でありながら、熱心な「文筆家」でもありました。
この彼女の書いた記録により、政治的な話題から日常的な話題まで、当時の様々なことがわかります。
(※権力者に近い女性で、ここまで様々なものを記録していたのは、当時としては非常に珍しかったそうです)
②アクセル・フォン・フェルセン
アクセル・フォン・フェルセン(Axel von Fersen, 1755-1810)もまた、グスタフ3世と親しい伯爵の1人でした。
彼はさきほどのシャルロッタと男女の関係にあり、さらに他にも様々な女性との関係を持っていました。その中にはフランスの王妃マリー・アントワネット(1755-1793)もいました。
当時の王室の男女関係(恋愛関係)
当時、王室(宮廷)では男女ともに、非常に自由な恋愛関係を持つことができました。
女性側はたいてい既婚者(妻)であり、「既婚で、年上で、経験豊富で、人脈のある女性」との関係を持つことが、若い男性たちにとって、キャリアを切り開く道の1つだったそうです。
女性たちにとっても、夫以外にそのような存在がいることはポジティブなものだとみなされていて、自身の美しさや人気、価値を示すものとして考えられていました。
※今と価値観が全然違うので、書いていてひっくり返りそうになりますが、ひっくり返らずにそのまま書いてみました。
なお、この話題の時に出てきた女性の絵画が、まるで写真のような感じで美しく描かれていてびっくりしたので、その絵画が見られる動画をこちらに貼っておきますね↓
「Damen med slöjan(ヴェールをかぶった女性)」(Alexander Roslin, 1768, スウェーデンの国立美術館所蔵)。画家が、自身の奥さんを描いた作品だそうです。途中で別の絵画も出てきますが(この絵画を寄付した女性の写真っぽいのも出てきます)、この黒いヴェールの絵が私は一番素敵だと思いました。あと旦那さんと奥さん、すごく似ていますね。
グスタフ3世の治世(続き)
奴隷
イタリアやフランスへの旅は、芸術作品だけでなく、その他のものを購入するのにも役立ちました。
たとえば、土地。1784年、スウェーデンはフランスからサン・バルテルミー島を買収しました。この島は戦争中の交易に非常に有利な場所にありました。物資を運び込むだけではなく、奴隷貿易においても。
スウェーデンでは、1300年代以降は奴隷制が禁止されていましたが、植民地にいたっては、別のルールが適用されるように。その際、スウェーデンが参考にしたのがフランスの「黒人法典(Code noir、コード・ノワール)」でした。
(※黒人法典…「1685年、ルイ14世の治世のもとにフランスで制定された法文書。全部で60条からなるこの法典(その名称に比べると実際は小さな条文集)は、カリブ海地域のフランス領の島々の黒人を対象とするものでした」。(早稲田大学法学部の刊行案内ページより))
スウェーデンで奴隷が禁止され完全になくなったのは、その後、1847年のことでした。
王室での孤立と、仮面舞踏会での暗殺
1780年代の終わりごろ、グスタフ3世の人気に陰りが見られるように。
貴族たちとの協力関係も上手くいかなくなっていました。
特に、グスタフ3世が貴族たちの意向に反し、自身の決定によって戦争を始めたことで、彼らはグスタフ3世から背を向けるようになりました。
そこで、グスタフ3世は今度は貴族ではなく、農民たちの協力をあおぐことにしました。農民たちが自身の土地で狩猟することを許可したのです。
また、貴族たちに奪われた土地を再度農民たちが購入できるようにしました。これはもともとグスタフ3世が禁止したことですが、その禁を解きました。
農民や他の(貴族以外の)人々の支持を得て、グスタフ3世は再び力を得ましたが、貴族たちの反発もまた大きいもので、グスタフ3世は王室で孤立しました。
王が晩餐会を開催しても、同じ日に別の会場で、王室の誰か(王の妹など)が別の晩餐会を開催し、王の晩餐会をボイコットしたりしました。
(これは当時の王室の女性たちに唯一残された手段でもありました。女性たちは政治的な議論に参加することができなかったため、こういった形で当時の政治に対して意志を表明。また、王室での社交界の様子はそのまま政治にも直結していたため、社交界での王の孤立は政治的な孤立も意味していました)
1792年3月16日、彼がかつて建てたオペラ座で、仮面舞踏会が開催された際、彼は不満を持っていた貴族たちによって撃たれ(暗殺)、約2週間後に亡くなりました。
(※撃たれた際に彼が実際に着ていた衣装も現存されています)
(※このできごとをもとにオペラにしたのが、オペラ「仮面舞踏会」(ヴェルディ)だそうです)
グスタフ3世の死後
グスタフ3世亡きあとは、息子のグスタフ4世アドルフが即位しましたが、スウェーデン及び周辺諸国の関係図は大きく変化していました。
ロシアとの戦争に敗れたスウェーデンは、長い間領地であったフィンランドを手放します。1809年以降、フィンランドは二度とスウェーデン領ではなくなりました。
さらに、当時すでに人気を失っていたグスタフ4世はクーデターを起こし(1809年)、逮捕・連行・退位。
(※退位したグスタフ4世は息子に王位を譲ろうとしましたが、議会は彼の子女も王位を放棄したと発表し、セーデルマンランド公カール13世が王となりました(Wikipedia「グスタフ4世アドルフ」より))
この頃(1809年)、スウェーデンは国としての在り方を大きく変化させていました。グスタフ3世の頃に復活した王権は再び弱くなり、絶対王政(啓蒙君主制)が終わりを告げます。
新しい政治形態が導入され、王(kungen)と政府(regeringen)と議会(riksdagen)の権力が分けられました(→新憲法の制定)。
王室では、さきほど登場したアクセル・フォン・フェルセン(グスタフ3世と親しかった人物)がスウェーデン王国元帥(riksmarskalk、リークスマルファルク、最高位の役職)となっていましたが、「彼が次期王太子候補のクリスチャン・アウグストを毒殺した(カール13世側の政権に反旗をひるがえした)のでは?」との噂が流れます。
アクセル・フォン・フェルセンは、暴徒化した群衆により、路上(議事堂前の階段)でリンチされ亡くなりました。
(※この噂の真偽や出所はわかりませんが、反グスタフ側(カール13世政権側)による意図的な噂である可能性もあり、裁判所は「クリスチャン・アウグストは病死であり、毒殺ではなかった」と判断をくだしたそうです)
「最高位の役人が、路上でリンチされ亡くなる」というこの出来事は、スウェーデンの古い体制の崩壊も意味していました。
(※前回・今回と、記事の中で「絶対王政」という言葉を使っていますが、グスタフ3世の場合は啓蒙君主制と言われるみたいですね。スウェーデン語だと「envälde」(絶対王政、専制政治)の言葉で説明されていたので、そのまま書いてしまいましたが。ごっちゃになっていてすみません)
おまけ:グスタフ3世の乾杯の曲
伝統音楽の話題のおまけです。
以前、グスタフ2世アドルフ(北方の獅子)の記事でも最後に載せた動画ですが、グスタフ3世にまつわる曲なので再び載せておきますね。
ニッケルハルパ奏者のアンダーシュ・マットソン(マッツソン)の演奏による「グスタフ3世の乾杯の曲」です。
演奏の前にエピソードを披露してくれています。以下簡単な訳↓
「私の出身地は、グローダン(※Grodan?)という屋敷(gården)があった辺りですが、かつてグスタフ3世がここを通りがかり、食事などの歓待を受けた際、『屋敷や土地を残して(守って)くれているお礼に』ということで、グスタフ3世に対してこの曲が演奏されました。当時、グスタフ3世がここを通ることは珍しくなく、バロン・ドゥ・ヤール(※地元の伯爵)に狩りに招かれてよくこの地を訪れていたそうです。オーロフ・ヘルステッドによりこの曲が演奏されました」と話しています。
ウップランド地方ではよく知られている曲だと思いますが、前回出てきたベルマンの「グスタフス・スコール」の曲を少し変えて演奏された曲です。
また、こちらの記事にも同じエピソードが少し出てきますので、もしよろしければ→Olof Hellstedt(オーロフ・ヘルステッド)について【ウップランド地方のニッケルハルパ奏者】
次回、民主化に向かう19世紀のスウェーデンについて見て行きます。
話が逸れますが、ニッケルハルパ奏者のビス・カッレという非常に有名な演奏家がいたのですが、彼が生きていたのが1783年~1843年なので、ちょうど今回見てきた時代に生まれたことになりますね。
石器時代から見てきて、やっとここまで来ました。あともう少しです。
昨日、スウェーデン語で話をしている時にこの番組の話題になり、「この番組、(歴史の概要を知るのに)おすすめだよ」と(スウェーデン人から)言ってもらえたので良かったです。この番組全然ダメだよね、とか言われたらショックを受けたことでしょう。
では、また次回は数日後に更新したいと思います。
