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スウェーデンの歴史㉕住宅の改善、第二次世界大戦、ヨンショーピンの暴動(1930年代~1940年代)

/ ニッケルハルパ奏者

前回、1930年代の終わりまでいったつもりだったのですが、まだまだ30年代の出来事がたくさん残っていました。

ということで、歴史の記事、1930年代の続きからです。貧困対策と、ある研究について・第二次世界大戦下のスウェーデン・戦後ヨンショーピンで起きた暴動(町の男性たちによる事件)、この辺を見て行きます。

20世紀の話題は、「伝統音楽関係なくなっちゃう気がするし、明るい話題があまり無いし、もう書かなくて良いかな」と思ったのですが、知らないことがたくさん説明されていたので、一応メモとして書いておこうと思いました。

★前回までの内容↓

・石器時代~鉄器時代→①石器時代②青銅器時代③鉄器時代

・ヴァイキング時代→④ヴァイキング時代への移行⑤ヴァイキング時代(略奪と交易)⑥ヴァイキング時代の終焉~中世へ(9~11世紀)

・中世→⑦中世(12世紀~、王の力と神・豊かな社会・聖人)⑧鉄・祝祭・都市部の様子(~12世紀終わり)⑨ビルイェル・ヤール、聖ビルギッタ、ペスト(13~14世紀)⑩デンマーク王による統治とカルマル同盟(14~15世紀)

・ヴァーサ朝→⑪クリスチャン2世とストックホルムの血浴(15~16世紀はじめ)⑫グスタフ・ヴァーサの時代(16世紀)⑬ヴァーサ王朝の国王たち(16世紀終わり)

・バルト帝国時代→⑭バルト帝国時代/大国時代の幕開け(16世紀~17世紀初め)⑮若い男女の出会い、結婚、教会の役割、徴兵(17世紀)⑯女王クリスティーナとカール10世の時代(1633~1658年頃)⑰魔女裁判とカール11世(1658~1700)⑱カール12世(大北方戦争、カロリーネル死の行進。1700~1721年)

・自由の時代→⑲自由の時代(1719年~)議会制と身分、交易、学問の発展⑳自由の時代の終わり(~1772年)出版の自由、党の対立、ベルマン、グスタフ3世㉑グスタフ3世とその後(ユダヤ人の定住、当時の王室の様子、王の暗殺)(1772~1809年)

・近代、そして現代へ→㉒自由教会とリバイバル運動、産業化、学校の設置(19世紀前半)㉓学校、アメリカ移住、労働運動、女性の権利と参政権、ナショナリズム(19世紀後半~20世紀初め)㉔農民の行進とグスタフ5世の中庭演説、労働紛争の激化と協定(1914年~1930年代)

※歴史番組「Historien om Sverige」の内容をメモして記事にまとめています。

1930年代の貧困対策-住宅の改善

1930年代のスウェーデンで取り沙汰されたのは、労働市場の問題だけではありませんでした。

「貧困」問題です。

政治家だけではなく、作家、研究者、社会評論家なども貧困問題の解決法を見出そうとしました。より良い社会を作るためにどうしたら良いのか。こういった議論や研究は「社会工学」(Sociala ingenjörskonsten)と呼ばれました。

Barnrikehus-子どもの多い家庭向けの住宅

社会工学的な観点で、まず行われたのが、住宅の改善でした。

「住環境の改善が、住む人の精神的・身体的な健康と安定をもたらし、より良い社会を作る」という考え方によるものです。

1930年代~1940年代にかけて全国的に建設されたのが、「Barnrikehus」(バーンリーケ・ヒュース=子どもの多い家庭向けの住宅)でした。

これは子どもの多い家庭の中でも、特に低所得者層向け(社会的に支援が必要な家庭)の公営住宅で、現代的な設備になっており、お風呂やセントラルヒーティング、さらには下水道やダストシュートも備えている場合がありました。

※当時の設備について

当時の住宅は、お風呂やトイレ(下水道)が無い家(もともと無い/外にある、など)が普通だったので、風呂・トイレつきは画期的だったそうです。

また、セントラルヒーティングというのは、現在のスウェーデンでは一般的な「暖房システム」です。今でもスウェーデンの家々にはエアコンや暖房はあまり無く、セントラルヒーティング(備え付けのパネルヒーターに温水を循環させる仕組み)で部屋をあたためます。また、それよりも昔は、暖炉や台所のかまどで暖をとっていました。

★以前書いた記事で参考になりそうなもの:スウェーデン都市部の住宅の歴史(Så byggdes Sverigeを見て⑤)

都市部や近郊では住宅不足が続き、特に子どものいる家庭は賃貸で歓迎されないことがあったため、このような対策がとられたようです。

住宅調査

他にも行われたのが、住宅調査(Bostadsinspektion)です。

これは、調査員(指導員)が各家庭を訪問し、現代的な設備に不慣れな人々に対し、「家の使い方」を教えることでした。

たとえば、「室内を汚さないために、玄関で靴を脱ぐ」という(現代のスウェーデンでは一般的な)習慣も、この頃に根付いたものだと言われています。

(※スウェーデンでは、日本と同じように室内では靴を脱ぎます。ただし、日本の住宅のような、玄関と室内の間の区別(=あがりかまちがある、もしくは床材の材質が違うなど)は無いことも多いので、普通の床の上に玄関マットを置いていて、そこで靴を脱ぐことが多いです)

また、昔は大勢の人々が同じ屋根の下に住む(2家族以上の同居、他人の同居など)ことが一般的でしたが、この時代から、「同居人無しで、1戸につき1家族が住むこと」が推奨されるようになりました。

住宅調査員だけではなく、児童福祉委員会、貧困対策委員会、禁酒委員会など様々な人々が各家庭を訪問し、彼らの様子を調査・指導しました。

住宅の現代化と、衛生環境を整えること。

平等性を重視することで、貧困問題を解決しようとしました。

そうして、少しずつ状況が改善。1930年代終わり頃には、子どものいる家庭の多くが、より良い住居に住むことができました。

人々は少し楽観的に、未来に対して希望を持つようになっていきました。

人種の研究

(※この項目はショッキングな内容なので、読み飛ばしていただいて大丈夫です)

一方で、「社会を変えられるかもしれない」「より良いスウェーデンを」という考え方が、研究者や政治家をはじめとする人々を、誤った方向へと駆り立てました。

当時の他の国々と同様に、スウェーデンでも、人種や優生学の考えが出てきたのです。

もともとこの背景にあったのは、1920年代以降、ウプサラの国立人種生物学研究所(Rasbiologiska institutet i Uppsala)によって行われた研究でした。

この研究所が作られた当初の主な目的は、「人々の健康の向上」。

スウェーデンにどのような人々が暮らしているのかを知るため、スウェーデン国民の体重、身長、頭蓋骨等の計測を行いました。

これには、サーミの人々や、他の少数民族のバックグラウンドを持つ人々への屈辱的な計測をはじめ、兵役で招集された何万人もの兵に対する計測までもが含まれていました。

調査結果をもとに、研究者たちは最終的に、個人を(身体的特徴から)いくつかのグループに分けられました。これが「人種(Ras)」と呼ばれるものでした。

そして、研究の着地点はいつしか、「北欧の人種の保護(“スウェーデン人”という種の保全)」となっていました。

その目的を達成するため、研究者たちは、2つの“敵”を仮定しました。

1つは「外部の“敵”」。これはスウェーデン人以外の民族的バックグラウンドを持つ人々のことです。「他民族と血が混ざることは危険だ」と考えられました。

もう1つは「内部の“敵”」。これは貧困層の人々のことで、彼らは「子孫を残すべきではない」と言われました。スウェーデンの人口の約10%の人々が、子どもを持つことが許されませんでした。

そして最悪なことに取り入れられたのが、強制不妊手術法(Steriliseringslagar)です。これは、民族的・身体的・精神的特徴、その他様々な理由で「『社会に適合しない』と一方的に判断された人々」が、不妊を強要されるものでした。

ロマの人々を含む移動型の生活を送る民族は、とりわけひどく不妊手術を強要され、苦しめられました。

こういった「科学的人種主義」(※「人は生物学的な人種に基づいて分類できるはずだ」という信念や、疑似科学的な概念。現在ではこれは科学とはみなされていない)は、少数民族のバックグラウンドを持つ人々への偏見と差別を生みました。

(※Wikipedia「科学的人種主義」

第二次世界大戦とスウェーデン

1939年には、第二次世界大戦が勃発。

スウェーデン首相ペール・アルビン・ハンソン(Per Albin Hansson)は「スウェーデンは中立の立場である」と表明し、戦争から距離を置こうとしていました。

他のヨーロッパの国々も同様に中立政策をとろうと試みましたが、多くの国は参戦せざるを得ない状況に追い込まれました。

1939年、中立政策の揺らぎ-ソ連のフィンランド侵攻

最初にスウェーデンの中立の立場が揺らいだのは、開戦から約3か月後(1939年11月末)、フィンランドがソ連に侵攻された時のことです。(※「フィンランドの冬戦争」)

スウェーデンは、フィンランド支援のためにお金や服、武器、飛行機などを送りました。約1万人のスウェーデン人が自主的にフィンランド支援の行動を行ったと言われます。

(※「本当は、フィンランドが一番必要としていたのは軍隊だったかもしれないが、スウェーデンは(中立の立場を守るために)軍を出動させることはできなかった」と番組では説明されていました)

戦時中は、数万人のフィンランドの子どもたちが、保護のために(難民として)スウェーデンへと避難しました。

(※スウェーデンにいた方が安全だということで、スウェーデンへ送られました)

中立の立場を貫きたい政府にとって、こうした周辺国への支援をどこまで行うことができるのか?は非常に繊細な問題でした。当時、スウェーデンの世論の大多数はフィンランドを強く支持するものであり、それは中立の立場を踏み越えそうな勢いでした。

スウェーデンでも厳戒態勢がしかれ、男性が招集されました。女性は家に残り、男性の仕事を代わりに行ったり、支援活動などに自主的に参加しました。

ナチス・ドイツへの譲歩(スウェーデン、中立を一時的に破る)

1940年、隣国のデンマークとノルウェーが、ナチス・ドイツの奇襲侵攻により占領されました(ともに1940年4月のこと)。

「次はスウェーデンが侵攻されるのでは」と怖れた政府は、中立違反をし(中立の立場を破り)、ナチス・ドイツに対して譲歩。

ドイツ軍のソ連侵攻の際にドイツ軍がスウェーデンの鉄道を使うことなどを、許可しました。

こういった譲歩を行うことで、スウェーデンが戦争に参戦せずに済むように、と政府は考えたのです。

ナチス・ドイツに対するスウェーデンの反応

戦争中、ナチス・ドイツに対するスウェーデン政府の対応、およびスウェーデン国民の世論は、二転三転していました。

たとえば、1939年頃は、ポーランド侵攻を行ったヒトラーに対してスウェーデンの人々は非常に批判的でしたが、1940年、ドイツ軍がヨーロッパ全体を支配し始めると、「それで平和が訪れるなら」と受け入れる人々もいたそうです。

(※人々にはまだヒトラーの意図がよくわかっていなかったため、「ドイツが目指すものが『ヨーロッパ全体での平和』ならば、戦争を続けるよりはマシだ・ヒトラーにたくしても大丈夫なのかもしれない」という風に考えたそうです)

が、ドイツ軍によるソ連侵攻が始まり、多くの兵士と戦闘機による戦いを目の当たりにした人々は、やはりヒトラーが目指すものは平和ではなく破壊だったと気づき、そこで彼とナチス・ドイツに対して再び批判的な目を向けるようになりました。

1943年、ユダヤ人受け入れ

1943年、何千人ものデンマークのユダヤ人が、ナチス・ドイツの目をかいくぐりスウェーデンへ避難しました。

スウェーデンが彼ら難民を受け入れるのは、それまでにはあまり見られないことでした

というのも、もともと戦前のスウェーデンは非常に制限的な難民政策をとっており、ユダヤ人難民に対しても「できるだけ少ない人数を、できるだけ短い滞在期間でのみ」受け入れることとしていました。(※つまりほとんど受け入れていなかった)

(※これは、「当時、ユダヤ人たちに対してどのようなことが行われていたのか、スウェーデンの人々には曖昧な情報しかもたらされておらず、よくわかっていなかった」ということが原因の1つであると、番組では説明されていました)

しかし、1942年、ノルウェーのユダヤ人たちが強制送還された際、人々は「ドイツ軍(警察)がどのようにユダヤ人を捕らえ、強制送還するのか」を具体的に知ることとなりました。アウシュビッツの存在については、人々はまだ何も知りませんでしたが、それでも、「何か怖ろしいことが起きているらしい」と気づいたのです。

世論は一変。スウェーデンはまずノルウェーのユダヤ人たちを受け入れ始め、それからデンマークのユダヤ人たちにも同様の対応を始めました。

ナチスに処刑(死罪)されるリスクをおかしながらも、人々はユダヤ人受け入れに対して協力しました。

約8000人のユダヤ人が、デンマーク・スウェーデン双方の漁師と市民の協力により、スウェーデンへと船で渡ることに成功しました。

1945年5月7日午後-終戦の報せ

1945年5月7日午後(スウェーデン時間)、第二次世界大戦終戦の報せが届きました。

(※ヨーロッパにおける第二次世界大戦終戦日は、ナチス・ドイツが連合国軍に無条件降伏した5月8日で、これがスウェーデンだと5月7日にあたるみたいです)

(※番組ではここで、終戦の報せを聞いて、喜ぶ人々で溢れる街の様子を映した当時の映像が流れていました。「平和(Fred)」のプラカードや、終戦を知らせるビラみたいなものがたくさん映っています↓)

(※番組では、大戦下のスウェーデンについて、限られた時間で簡潔に説明されていましたが、詳しく知りたい方は他のサイトをぜひ参考にしてみてください。たとえば→Wikipedia「第二次世界大戦中のスウェーデン」

1948年ヨンショーピンでの暴動(Jönköpingskravallerna 1948)

戦争が終わり、平和な時代が訪れるかに思われましたが、「すべての人」にとっての平和はまだ訪れていませんでした。

スウェーデンにはロマのバックグラウンドを持つ人々(Romer)も住んでいますが、彼らは戦後においても、まだ社会から疎外され、差別を受けていました。

(※もともとヨーロッパにおいては、彼らを捕らえ、強制収容所へ送る・殺害するといったことが過去に起きており、スウェーデンでは戦後に同じようなことが起きていたと見られます)

そんな中、1948年、ヨンショーピンで暴動が起きました。のちに「ヨンショーピン暴動」(Jönköpingskravallerna)と呼ばれるものです。

人々の対立

ロマの人々は16世紀頃からスウェーデンに住んでいました。

一口にロマと言っても、様々なバックグラウンドを持つ人々がおり、そのうちの一部が「移動型の生活をする人々」(旅の民、遊牧民、Resande folk)でした。

(※「移動型の生活をする人々」だと長いので、一時的にこの記事では「旅の民」と書いてみます。良い訳かどうかはわかりませんが…)

彼らの一部はヨンショーピンに定住しましたが、その際、ある特定の地域にまとめて集められ、質の悪い住居を与えられていたということです。

長い間、旅の民とその他の住民たちの間にはわだかまりがあり、関係性はあまり良くありませんでした。

対立の激化と暴動

1940年代になり、ヨンショーピンでは、旅の民たち(※実際にはこの表現を侮辱的にした“Tattare”という言葉が使われた)に対する政治的議論が過激化。

さらに、地元の新聞社が彼らを「犯罪をおかす人々」「危険だ」と主張したことが、町の人々の一部をたきつけました。

1948年の夏至の頃、町の男性たちの一部が鈍器や凶器を持って数日間町を徘徊し、旅の民の居住地区や住居に侵入・住居を破壊。

住民たち(旅の民)に対しても、暴力をふるいました。何人もの人が負傷し、子を守る親たちは服を切り裂かれ、血まみれになりました。

死者は1人も出ませんでしたが、これは奇跡に近いことで、それくらいひどい暴動でした。

全てが終わった後、暴漢たちは捕らえられましたが、主犯格の人物は数カ月間の服役という判決を受けたのみでした。

それに対し、被害を受けた人々のトラウマは何十年も続きました。「また同じことが起きるのではないか?」という不安と恐怖が、被害者家族たちをおそいました。

このヨンショーピンの暴動は、当時いくつも起きていた「旅の民たちやロマの人々への差別を反映した出来事」の、1つにすぎないそうです。

ロマの人々の多くは、すでにスウェーデン国民であった(※長く定住していた)にも関わらず、住居、仕事、教育など様々な面で存在をおびやかされ、基本的な権利を奪われていました。

彼らの状況が改善するまでには、さらに数十年がかかりました。

(※Wikipedia「Jönköpingskravallerna」(スウェーデン語)

次回、戦後のスウェーデンについて引き続き見て行きます。


冒頭にも書きましたが、20世紀の話は暗いものが多く、書くのに少しためらったのですが、一応最後までやり切ろうと思い、腹をくくりました。

最後のヨンショーピンの暴動の話は、日本語で検索してもあまり出てこなくて(私の検索の仕方が悪いのかも)、日本ではあまり知られていないことなのかな?と思いましたが、どうなのでしょうか。単純にネットに出ていないだけかもしれません。

ちょっとニッケルハルパの話題を書きますが、私が今使っているタイプの、キーが3列のニッケルハルパが考案されたのが「1930年頃(アウグスト・ボリーンという奏者によって)」と言われています。

(それまではもう少し古いタイプのニッケルハルパが演奏されていました)

こういう社会の変化が次々と起きていた中で、せっせとニッケルハルパの改造にいそしんでいたアウグスト・ボリーン、すごいなと思いました。楽器を弾くのすら、大変な時代もあったことでしょう。

彼だけではなく、20世紀半ばを生きていた演奏家たちはこういった時代を経験してきたわけですね。もちろん、地域や職業によっても経験したことは違ったとは思いますが。

では、次回で終われるように頑張ってみます。